ゲゼルの自然経済秩序

「自然的経済秩序」日本語訳 訳者: 岩田憲明・廣田裕之

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特に減価する貨幣の説明を抜粋する

特に、ロビンソン・クルーソーのたとえ話で判りやすく説明している

1.奇妙なことに、われわれは4000年前から何十億マルクもの資本金利を支払い、徴収しているが、「どこから、そしてどうして資本家が利子を入手するのか」という疑問に学問は答えられていない(※2)。

 2.いわゆる価値は幻想であり、実際のところ想像力の産物でしかないのだ

3。「加工した物質(※3)から具体的な特性を取り去ると、たった1つの特性、つまり価値が残る」とマルクスは言った。

※3:「労働生産物」とマルクスは呼んだが、この表現は人を迷わすものである。この抽象化のあとで残るものは特性ではなく、単に人間の肉体が作り出した対象の歴史や認識でしかない。

4.※4:マルクス「資本論」第1巻4ページ「商品からその使用価値を差し引くと、労働生産物という特性だけが残る」

5.ある人が何らかの事物を必要とし、欲し、その求められた事物を他人が所有し、もはやその所有を欲しない場合、求めているものをその所有者が手放し、彼に譲渡してもらうためには、自分が持っている何かの提供が一般的に必要となる。こうして、交換を通じて自分のものにすることができる。そして、もし求める商品がその所有者にとって不要である場合でも、これを行わなければならない。それを証明するには、もし所有者が、他の人がその商品を必要としていると知った場合、その商品をその人にただで渡すことはなく、そのためだけに取っておくということが往々にして行われるということを示すだけで十分だが、これは所有者が、その人以外にもその商品を有効利用できる人がいると知っているからだ。 そしてその事物への必要度が差し迫っていればいるほど、所有者の要求も高くなる。

ここまでの文章は現在のところ、あまりにも自明で自然なため、多くの人がこの表現を冗長なものとみなすだろう。確かに、私が知る限り、経済学の文献でこんな法則をわざわざ書いたのは初めてである。だが実はこれは、今日の経済やビジネス、そして市民同士や市民と国家との関係の基本的な法則にかかわるものだ。

上記の「世界を震撼させる」発見は、ニュートンの重力の発見と同じように、凡庸で自明なものである。そのためこれは経済学にとって、自然科学に対するニュートンの発見と同じ画期的な意味を持つ。

6.最小の犠牲で最大の利益を目指す努力が、商品の交換を行い、それを支配する力である。

7.分業のもとでは、これらの労働は交換対象物、つまり商品を生み出すものとして理解される。職業としての分業は、ある商品の製造過程を分割するという単に技術的な分業に過ぎず、経済的な分業と混同されてはならない。

8.、お金の製造の自由はいかなる方法を用いても排除することが、交換道具にとって本質的な事柄である。お金の製造やその様式が自由化されていたならば、その多様性によってお金が本来果たすべき目的を達成できなくなってしまうだろう。誰もが自分の作ったものをお金と主張するならば、われわれはまたバーターに逆戻りしてしまうだろう。

8.法的な禁止であろうが原材料(金(きん)やタカラガイなど)の調達などの自然的要因によるが、また意識的にあるいは無意識的であろうが、人民議会で決定されようが経済の切迫した状況に屈服した結果だろうが、いかなる場合でもお金を製造する商業の自由の排除が必然的に達成され、これは市民の行動である。法や国家の行動以外にこれほど意見の一致した行動があるだろうか。交換道具には常に国家機関の認定印が押されており、この記号は鋳造された金属貨幣にも、タカラガイにも銀行券にも与えられている。定められた交換道具として一般に人目で認識されるように、これらは政府機関の認定印を持つ。

9.お金がその物質のためではなくその交換手段としての特性のために買われ、消費されるかわりに交換手段としてのみ使われるところにお金の本質がある。お金は永遠に回り続けるサークルを描き、出発点に戻る。

10.こうして、以下の理由でお金の紙切れが紙幣になる:

1. 分業が大きなメリットをもたらすため

2. 交換対象としてのみ生産者にとって有用である商品を分業が生み出すため

3. 商品の交換が、分業がある程度発達した段階で、交換手段なしでは不可能になるため

4. その本性上、交換道具は社会・あるいは政府のお金としてのみ存在できるから

5. 国家は単なるお金の紙切れにすぎない他のお金を作らないと考えられているため。人々は単なる紙切れにすぐないお金は作らないと信じているから

6. 商品の所有者はすべて、政府が出した紙切れのお金をその生産物の代わりに受け取るか、分業を諦めるかという選択に立たされるため、そして

7. お金の紙切れの所有者は、それをただでは手渡さず、困窮した商品の所有者がその商品を紙幣に対して提供しなければならないから

8.債権者を犠牲にして債務者を利するために価格を上げるべきだろうか。それとも金利生活者を富ますために物価を下げるべきなのだろうか。早い話、債権者や債務者にこの問題の決定権を与え、お金をペテン師に管理させてしてしまうべきだろうか。われわれは誰もだますべきではなく、お金の管理の際に特定個人にとってのみ有益なものについては考えないようにするべきだ。お金は私的な経済的立場ではなく、国民全体の経済の立場から運営されるべきだ。

お金は時や場所を越えて、今日と同じ価格を保たなければならない。商品に対して支払われるものは、明日だろうが来年だろうが10年後だろうが同じ値段でなければならない。こうすることで1ペニヒの違いもなく、債務者は得たものを支払い、債権者は与えたものを取り戻す。

これは自明のことであり、理論付けは必要ない。(

9.全商品への均一的な価格上昇は、全商品に同じ影響を与える原因によってのみ起こり、生産コストの変更では起こらない。そして同時に全商品価格に影響を与えられるのはお金だけだ(※2)。各商品の価格を11%上げるには、それだけ余計にお金を流通させればよい。

10.だがこれが、お金の価格測定を断念する理由になるのだろうか。パンはパリの尺度で測られるわけではなく、仕立て屋もこの尺度を使わない。だがビジネスマンは、木尺での測定に同意している。お金の価格の概算は、中央銀行総裁の当てにならない宣言よりもましではないのか?われわれは今日、ドイツのお金の価格について何を知っているのだろうか。われわれが実際に観察したものか、関係者が証拠もなしに主張することぐらいしかない。

この無知蒙昧に対しては、お金の価格を測る尺度は、直接的な有益性や、それから得られる結果からしても、非常に有益だろう。この尺度はおそらく、われわれに多くの驚くべき結果をもたらし、金(きん)の崇拝者を非常にまごつかせるかもしれないが、だからといってやめてしまっていいのだろうか?この問題で判事は、泥棒の当惑を考慮するのだろうか。獣脂ロウソクは、漆黒の夜よりもましではないか。学問が喚起する疑念は、盲目的な信仰よりましではないか

11. 商人の倉庫は、この作業では考慮されない。これは生産に含まれており、生産価格の算定が引き起こすズレは、同様に商人の決算にも影響すると考えることもできるだろう。倉庫を価格統計に含めることは、そのため不必要だろう。賃金の場合も同じで、これはすでに商品価格に含まれている。さらに、工場での価格が安定しているなら生活費も安定してなければならず、労働者や公務員や金利生活者や老人年金生活者が同じお金で同じ量のものを買うことができると考えることもできる(もともと金利から来ている労働者の家賃は、ここでは考慮されない)。

生産手段(土地や家屋、機械など)はこの算定には含まれない。生産手段はもはや商品ではなく、所有者が交換ではなく使用を目的としている財である。売却されないものの価格は関係ない。消耗する生産手段の償却分のみが、定期的に商品となり、生産物となって、再度市場に出る。だが、商品価格ではこの部分は十分に考慮されている。

政府は価格や、ある特定の商品の意義を算定する必要はない。この仕事は全て、市民が行う。お金の価格算定は完全に政治から切り離され、公正に行われる。市民のみが直接通貨問題の判断を行う。

12.商品が交換されるレートがその生産に必要な労働、つまりいわゆる価値で規定されるという理論は、明らかに紙幣には適用されていない。紙幣は価格をつけてはいても「価値」を持たないが、それには労働コストがかかっていないからだ。紙幣は「労働ゼラチン」ではなく、「価値物質」を持たず、「内的」価値さえもない。紙幣は「価値倉庫」や「価値保存剤」、あるいは「価値移送手段」としてのみ役に立ち、それ自身は質の良し悪しを問われない。紙幣の価値は「振り子の静止点としての価値」(価値学説の表現) で上下したりは決してできない(※1)。

※1:ここでは、どうして価格が「価値」のあたりで揺れ動かなければならず、どうして価値から価格を切り離せるだけの力が、それをずっと切り離したままにできるほど強くないのかということについて、問うことが許されるだろう。

紙幣は独自の道を行かねばならない。紙幣の運命は価格を決定する力次第であり、1名の主人のみに紙幣は仕える。

価格を決定する力は、需要と供給という言葉で理解できる。上記の疑問に完全に回答するためには、二つの単語の意味を完全に理解しなければならない。

13.、カウンターで綿布を農民に売る商人と、手形を売るために1時間後に銀行に駆け込む商人をきっちり区別しなければならないことは明らかだ。綿布を手にした商人には、交換手段であるお金の「需要」が発生するが、それに対し手形を手にした商人には銀行においてお金への需要を持たず、それは手形は商品ではないからだ。ここで金利が問題となる。ここではお金の需要ではなく、必要性が働いているのだ。

お金への需要は、お金の必要性とは何の関係もない。物乞いも政府も、暴利をむさぼられる農家だけでなく、手形をお金と交換しようとする商人や企業家も、お金を必要としている。お金への需要はそれに対し、商品の売り手のみに発生する。お金の必要性の定義は曖昧たが、お金の需要の定義ははっきりしている。お金の必要性は個人から発生するが、お金の需要は商品から発生する。物乞いは施しを欲し、商人は店を大きくしようとするが、投機家は市場を独占するために、競争相手から銀行家のお金を横取りしようとするが、農民はこの場合、高利貸しが仕掛けた罠に引っかかる。誰もがお金を切に必要としているが、お金への需要の喚起はできないが、というのもこれはお金の需要が人間の関心ではなく、商品の在庫と供給次第だからである。その意味で、需要と供給が価格を決定するというのはウソである。金利で計られるお金の必要性と、価格で計られるお金の必要性の間には考えられる限りの本質的な違いがあり、全く共通項を持たない。

「お金への需要」ということばですぐに商品について考えず、「お金への莫大な需要」ということばですぐに山のような商品や市場、貨物列車や荷物でいっぱいの船を思い浮かべず、さらにおそらく過剰生産やその結果としての解雇について考えない人は、「交換手段としてのお金への需要」ということばの意味を理解しておらず、分業のためにその交換をお金に依存している貨車の石炭のような商品が生産されいることを把握していない。

増加するお金の需要について、それが金利の上昇のためであることを耳にした人は、その考え方対し手に適切な表現を用いていないことを知っている。だがお金の必要性とお金の需要を混同している国民経済学者の意見を耳にした者は、経済学の問題をいいかげんな用語で扱うことに注意する義務を負う。

すると、お金への需要は完全にあらゆる人間的な必要性、事業、取引、市場状況などから分離され、お金の需要を今まで包み隠していた価値という霧を取り去り、分業のために市場に絶えずもたらされる商品の山の上に君臨するように置く。そしてこれは、誰にでも明らかで、理解でき測ることができる。

われわれはお金への需要を、お金の必要性と区別する。われわれは別の山を築くが、これは商品ではなく、手形や抵当証券、国債や債務証書、保険証書などでできており、そこではお金の必要性が明るみになる。最初の山には「お金」と書かれ、2つ目の山には「金利」と書かれるが、私の需要ということばをお金の必要性の研究の1つとして考える人は、こんな不健康な本を閉じるべきだ。この本はそんな人に向けては書かれていない。

12.われわれが見てきたように、この方法は価値問題を無視する。いわゆる「価値」を相手にしない。

商品は商品で支払われ、商品によってのみ、その商品の物理的な特性によってのみお金は測定される。お金には商品としての他の尺度はない。お金のために私は商品を差し出し、後にそのお金で商品を得る。労働や汗ではない。私のお金でこれらのものを与えてくれる売人が、それを得るためにどれだけの時間働いたかということは彼の問題であり、私には関係ない。私には生産物(※4)だけが問題なのだ。そのためお金の価格の尺度として、労賃も排除されるべきだ。このお金の価格は労働生産物に向けられ、マルクスが主張するように労働時間には向けられないのであり、労働生産物が金利や地代の形で天引きされている限りはそれは労働生産物とは一致しない。だが、賃金に資本金利や地代を加えると、お金の価格の尺度となる商品として説明した労働生産物以外のものではなくなる。

※4:労働は、労働生産物から明確に区別されなければならない。お金の価格の尺度として労働を用いてはならない。

12.

 14.それゆえ、お金への需要は、ちょうど信用によって交換される商品の量の分ほど減少する。信用取引の量が増えれば、お金への需要は減り、信用取引が減ればその分だけお金の需要は増える。この信用取引の、お金の需要に対する影響は、バターとワインがお金で計算され、手形や小切手、その他の信用手段がお金の代わりを果たす分となる。お金の需要の回避が常に問われているわけだ。この信用は、お金が介在するすべての取引において不要のものとする。もちろん存在するのは単に信用とともに生まれ信用とともに消える信用という手段のみである。信用がある限り、お金のかわりとなる。

15.お金の需要は、分業や共有物による生産物がその品質を落とす速度とも不可逆的に関係している。

お金の需要は、信用の発展や制限、つまり絶え間なく増減する信用が市場やお金の需要を減らす働きをする常に交換されている商品量に左右される。

その日のお金の需要は、その日に市場にもたらされる商品から、信用取引(あるいは直接的バーター取引)で売られた分を除いた量である。

簡単に言うと、商品の供給は完全に、「供給と需要が価格を決定する」という法則の意味での供給のことであり、これはすなわちお金の需要である。商品の供給はお金の需要を意味し、その逆でもある。そして供給は商品量で一致する。

16.供給は、分業に由来し消費者の家庭で枯渇する水流である。需要は水流ではなく、循環するもので、それが速く動けばわれわれにとってより強固につながった円となる。

供給は常に、道を外れて永遠に消え去ってしまう新しい商品から成り立っている。

それに対し需要は、同じ道を1000周してもまだ戻ってくるお金の数で成り立っている。

この対比から、需要は供給とは別の法則に支配されていることが認識できる。商品が購買者への流通過程を経れば経るほどその大きさや重みを増し、いわば高価になるのに対し、お金は1000回持ち主を変えても価値は同じであるという状況は、所有者の入れ替わりについての述べる章で詳しく見るつもりであるが、この点ではお金は商品と比較できないということを明示している。

17.需要はお金の量と共に、お金の流通速度によっても規定される。お金の増加と、お金の流通速度に比例して需要は増大する。

18.商品に対しての商業的なお金の提供である正規の需要は、市場が以下の条件であるときのみ有効である:

損失に対する安全性が十分である

お金に手数料が支払われる

18.物価が下がり、小売価格が卸値よりも低くなり、流通業者が販売で損益を蒙るのが普通になった場合、たとえば1000マルクを払って購入した商品の価格が現在900マルクで、この価格で売らなければならないとすると、信用売りは減る。ビジネスマンの信用は商品価格と一緒に上下し、そのため商品価格の上下に応じて信用売りも増減する。

このことは誰も知っており、それほど特別なことはないが、それでも奇妙に見える。

物価、つまり需要が供給よりも大きい場合、信用売りが急増して商品取引の一部でお金の肩代わりをし、物価をさらに押し上げる。だが価格が下がると、同じく信用売りも減り、お金に対して商品の価値が下がり、物価もさらに下落する。

経済危機について、これ以上の説明を探す必要があるだろうか(※3)。

19.需要過多のときに金貨はさらに需要を喚起し、縮小を始めたとたんお金の所有者の生存に必要な最低限まで需要を制限する。腹を空かした人間に腹をすかしているが故に食料を与えず、満腹の人間に満腹なるがゆえにさらに料理を差し出している

20.経済危機は売上の停滞や失業増などをもたらすが、これは物価が下落しているときだけ起こる。

物価は以下の3つの理由で下落する。

金(きん)の生産状況では、お金の供給(需要)を商品の生産(供給)に合うように調整できないため。

商品の生産が増加(好況)し、いわゆる現実資本の増加によって現実資本の利益が下落した場合。なぜなら、新しい現実資本の構築のためにお金が提供されず、それに必要な一定の商品(商品生産のかなりの部分、特に人口が増えている場合)の売上が停滞するからである。

商品生産が増加し、繁栄する中でお金(需要)が鍛冶屋の手で、特に増大する商品の供給を尻目に、溶解される場合(※1

そのためには、以下の事項を達成すればよい。

お金を金(きん)から分離し、お金の生産を市場の需要に適合させる

どのような状況、特に資本による利益が金利および生産財(現実資本)による利益の両方において下落し、消滅してしまった場合でも商品に対して提供されるような紙幣を作る。

21.そのため、純粋な紙幣を通じて可能になった、政府による通貨量の管理に加え、交換手段と貯蓄手段との実行力のある完全な分離を私は要求する。貯蓄者は世界の全ての商品が利用できのに、なぜ彼らは全て貯蓄をお金で行うのであろうか。お金が貯蓄されると、使用されなくなるではないか。

22.供給は、商品の所有者の意思を越えた既述した強制力を通じて単純に測定可能となる。そのため需要も同じように、お金の所有者の意思から分離されなければならない。そしてそれが実現されれば、需要もいつでも測定可能となる。商品生産量がわかっている人は供給量もわかっている。そうであるなら、マネーサプライの量を知っている人間なら誰でも、需要量がわかるようになるだろう。

すべてはお金に備わっている交換道具としての流通強制力を通じてこれはいともたやすく達成され、この強制力を通じてのみこの目的は達成される(第4部を参照

23.ここで不十分とされる単純な通貨発行改革は、物価によってのみ制限される形で量的に自由にお金を発行し、流通させる権力を政府に与えることを提案している。お金の需要を政府は、商品の平均価格のみで計るべきだ。物価が下がっているときは政府はお金の流通量を増やし、物価が上がるとすぐに、流通量を制限する。お金はある特定の商品、ましてや金(きん)で買い戻せるものであるべきではない。それは、買戻しのために所有者は市場に向かうべきだからだ。だがそれ以外では、紙幣はふつうの紙幣と区別されてはならない。そして何よりも、お金の貯蓄手段としての使用や乱用、あるいは投機家にとっての準備金としての側面も認められ続けなければならない。供給に対して今日需要が持っている特権は全て保たれることとなる。需要は現在のように、お金の所有者の意思のままに、お金の権力の遊具として残るというわけだ。

だがここで明確になる目的は、定期的に起こる生産過剰(慢性的過剰生産)と失業を取り除き、経済危機を不可能にし、資本金利を抑えることであるべきだ。

この改革について判断を下すのは貯蓄者の行動であり、するとまず思い出すのは貯蓄についての記述である。貯蓄者は自分が買う以上の商品を生産し、過剰生産物は企業家が貯金箱にあるお金で買い、新しい現実資本へと加工される。だが貯蓄者はお金を金利なしでは提供せず、建設したものが少なくても、貯蓄者が要求する金利相当分を稼ぎ出さない場合、企業家は金利を払うことができない。だが家屋や工場、船舶などの増加がしばらく続くと、自然にこれらのものに対する 金利も下がる。すると企業家は貯蓄者が要求する金利を払えなくなる。お金は貯蓄口座にとどまり、貯蓄者の余剰物が買われることになり、販売不振となり物価が下がる。こうして危機が起こる。

24.自分の商品をお金で売ってもそれを商品の購入で手放さない人は、金利が与えられればお金を貸す用意ができているといえる。だがこの条件を認めることはできない。無条件でお金が貸し出されない限り、商品を買うか自分の生産物を買い戻さなければならないようにしなければならない。どんなものであれ、お金の流通を交渉条件にする権利は誰にもない。お金のある人は商品を直接買う権利があるだけだ。金利の権利はお金の考え方に反しているが、それはちょうど政府の制度の助けを受けた、商品交換にかかる民間税のようなものだからだ。金利の権利は、お金の保持を通じて商品の取引を中断し、お金を待っている商品の所有者を窮地に追い込み、金利をたかるためにこの窮地につけ込む権利と同じである。お金が貸される条件は、貯蓄者のみの関心事であり、そこに政府は介入すべきではない。政府にとってお金はただの交換手段である。政府は貯蓄者に言う。「きみは買う以上に商品を売って、お金が手元に余っている。何があってもこの余ったお金を市場に戻して、商品と交換しなければならない。お金は安楽イスではなく、止まり木である。もし商品をきみ自身が特に必要としていないのであれば、手形や債券や抵当証券などを、商品を必要としているのにお金がない人から買いなさい。手形をきみが買う条件はきみ次第だ。きみはお金を市場に再度もたらすという無条件の義務さえ果たせばいいのだ。もしそれをしないのであれば、きみがぐずぐずすると他の市民が被害を蒙ることになるので、罰をもって強制する」

25.政府は商品の輸送のために道路を築き、商品の交換のためにお金を作る。すると政府は、活気付いた道路を牛車のゆっくりした通行で閉鎖しないよう要求するように、お金の保持で取引を中断したり遅らせたりしないよう政府は要求しなければならない。にもかかわらず、それを無視する人は罰せられるべきだ。

26.貯蓄者は自分が必要とする以上の商品を生産し、この余剰のために支払われたお金を金利なしでは手放さない。貯蓄者がこの振る舞いで直接引き起こしている危機は、政府が企業家にお金、それも印刷所から直接来た新しいお金を低い金利で提供することによってのみ回避できる。

27.現にある交換手段と貯蓄手段との統合を解消し、全てのお金の私的蓄えを解消し、全ての貯金箱をぶっ壊し、金庫を破壊し、戦時も平和時も、好況時も不況時も、いつでも物価の変動なしに市場が活動できるだけのお金が流通するようにするお金の改革と、ここまで討議されてきた通貨発行改革を結びつけるために徹底的な努力を行うことが、私にはより理に適ったことに思える。

自由貨幣によって、交換と貯蓄の手段の従来の統合性が、われわれの研究の成果と調和する形で、見るも無残に破壊される。お金は単なる交換手段になり、その所有者の意思から解放された物質的・化学的に純粋な需要となる。

28.通貨改革がどのような影響を商業に対して与えるかを知るためには、粗商業利益、つまり個々の商品の卸価格と小売価格の差が統計的に調査されなければならない。小売価格から卸価格を引いたものが商業粗利益である。すると、ある国でのビジネスコストがいくらであるかや、現在のお金のシステムの有効性を見積もることができる。多くの主張があるように、総生産の3分の1以上を今日実際のところ商業が消費している。つまり、1000キロの生産のうち、333キロもが商人の手へと消えてゆくのだ。

29.戦争党員は、戦争のとらえ方によって4つのグループに分けられる。

神の審判

野心的な人間の意思の表れ

生物学的な自然淘汰現象

経済的困窮に反する方策

Virtuelle Institut für die Forschungen Silvio Gesells

Virtual Institute for Researches on Silvio Gesell

Instituto Virtual de Investigaciones sobre Silvio Gesell

Institut Virtuel de Recherches sur Silvio Gesell

最終更新:2003年8月29日

~代表作「自然的経済秩序」~

第3部 お金の実態

3-16 金(きん)と平和

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「全ての犯罪の元凶である金(きん)を追放したリュクルゴスを讃えよ」(ピタゴラス)

持続的な国際平和をもたらすことができる唯一の精神が成り立つための条件は、国内平和である。だが国内平和は一方で不労所得である金利という特権と、つまり地代生活と矛盾する。他人の労働収益に対する権利とも言える地代と金利は、国内外の平和を享受しようとする限り、徹底的に犠牲にされなければならない。

削減した軍備支出を自分たちの意見広告に充てようとする多くの平和主義者が常に考えているほど、国際平和は簡単には達成されない。戦争時の軍備費は確かに、平和時の軍備費に比べたらわずかなものである。このわずかな額については、誰も語ろうとはしない。ドイツでは平和時の軍事支出はわずか10億マルクだったが、平和時の軍備費のために地代や資本金利から年間200億マルクもの支出を余儀なくされた。20倍である。

確かに紙の上では平和条約は安く済むが、そのような条約が何の役に立つのか。ベルギーやイタリアとの条約は紙で書かれ、紙の上で立証された。条約が有効なのは、両者にとって正当なものである限り、つまりそれを必要とせず、条約が無用の長物になっている限りである。条約の目的としていた状況が変わり一方に不利になるや否や、その条約が書かれた紙は破られるのが常である。紙の上に書かれた条約が以下に虚しいものであるかは、国内平和をその上に打ち建てようとするとすぐに明らかになる。憲法の前で尻込みするかどうか、労働運動のリーダーに聞いてみよう。だが、国内平和の継続を保証することができる憲法は、現実に即してなければならない。全市民の法のもとでの平等、不労所得の完全な排除が、紙を必要とせず、いかなる破壊行為からも守られる憲法である。

連盟や条約の制度、軍縮、それに仲裁裁判所などで諸国が互いに拘束され、戦争が完全に不可能になった場合をちょっと想像してみよう。少なくともその状況の想像はできる。だがこくさいせんその代わりに何がもたらされるのだろうか。国内で戦争が起こらないための安全弁として古くから用いられてきた国際戦争や、今まではストライキという不完全な武装しか持たなかったが、すでにしばしばゼネストという形で市民社会を脅かしてきた世界戦争ではないのか。まさに内部の事情によって絶えず展開する状況が、平和時には急速に、時には恐ろしいほど荒々しく進展する。10年か20年の平和の後で、国際労働機関によって事態は限界を迎えるだろう。世界市民戦争はこうやって起き、これは従来のおぞましい戦争同様、世界中のあらゆる都市や村で、敵を征服し勝利を収めるまであらゆる手段を用いて行われるだろう。この世界戦争では、確実に人が死ぬだけでなく、国内での戦争も再燃する。状況が展開すると、資本主義的な秩序の転覆の可能性がプロレタリアに「幸運にも与えられ」共産主義的な経済に移行した国の政府が、そのような経済に本性的に備わっている欠陥の結果、すぐに不利な状況に陥り、その国の政府は反乱分子を抑えつけ資本主義的な「秩序」を救出する事態に抗し切れないだろう。

支配階層が自分たちの特権の救い出すためにプロレタリアの暴動を無分別に、流血に訴えてでも鎮圧しようとする事態になることを、どんな楽観主義者でも認めるだろう。

この状況では、国際平和への努力が何になるのかと問われる。国際平和への努力を行っても、その基盤である国内の平和をないがしろにして何の意味があるだろうか。これこそ、砂上の楼閣ではないか。次々と壁が崩れている建物の屋根の改善を考えるようなものではないか。そのためこの状況では国際平和は単に、今日全世界を支配している社会秩序という安全弁によって密閉されている状況に過ぎず、世界大戦までの猶予期間を縮めるだけだ。

それに対し、われわれの資本主義の安全弁を今までどおりさらに機能させ、本当の国内平和の基盤を確立し、永遠に続くと確約できる協調協定(社会契約)を締結するほうが、おそらくより好ましく人間的ではないか。世界大戦後に何をするか、われわれは知っている。戦争はそのうち終結を迎える。至る所にある瓦礫の山の上に座り込み、がれきの破片で腫瘍を払いのける。だが技術的な裏づけを持った経済秩序のもとでわれわれは労働を行い、その成果を享受する。だが、世界市民戦争の勃発後起こることがかつてのようにもう頭を悩ませることはない。これは今までのように、完全な破滅とは逆の方向に向かうものだ。

以上の説明は、平和を地上にもたらさんとする人全てに向けられ、国内の平和と国際的平和の間に成り立っている連関に人々の注意を喚起し、同時にあらゆる場所で平和を乱している金(きん)の正体を彼らに見せつけ、それが人類の宿敵であり、かつ諸国の階級的対立を煽る内戦の原因であり、さらにその最終目的が戦争であるということを、理論立てて示さなければならない。

市民と国家の平和は、金本位制と両立するのか?

どの国でも戦争党、つまり考察や研究の結果、自らあるいは他人の理論から、またはその他の理由で、国内外での平和が狂信であるという意見を持つに至った人たちがいる。だが平和を信じられない人間は必然的に戦争を信じ、そのすべての行為もしくは黙認を通じて戦争を推し進める。戦争党に登録した党員でない場合も、追従者とみなしてかまわない。そこでは、当事者が戦争を望んだり、その勃発に喜びを覚えたりする必要は全くない。戦争が不可避であると信じるだけで十分なのだ。あとは自然にことは進んでゆく。神託で告げられた災いを避けようとしてその災いを必然的に起こさなければならなかった古代とこの点では変わりはない。中世では次の秋に世界が終わると予言されると、この世の終わりともいうべき事態が各地で実際に起こったが、それは土地の耕作をムダだと考えたからだ。そして企業家が経済危機を信じ、計画していた事業を中止して労働者の解雇を決心すると、同じことが今でも起こる。危機を信じると、それが直接その勃発の原因になる。人々が広く戦争が不可避だと思うことと戦争の勃発は時間的にも同時に起きる。

そのため、私は繰り返す。国際平和を信じられない人はその意味で戦争党に追従する者であり、一蓮托生なのである。そのような人は戦争の準備をしながら、自らの発言や学説で戦争に対する疑念を深めている。

戦争党員は、戦争のとらえ方によって4つのグループに分けられる。

神の審判

野心的な人間の意思の表れ

生物学的な自然淘汰現象

経済的困窮に反する方策

国内外で災いが起こっている時に、偶然、戦争が起こる時期についての一致した見通しができてしまうと、この4つの戦争党グループがどの国でも力を合わせ、彼らがそれに対する処置を講ずることによって、いつ戦争が起きてもよい状況が作り出される。ここでさらに強調したいのは、これらの4つのグループの支持者たちガ全く争いごとを好んでいるわけではなく、むしろ個人的には平和願望で満たされていることもあるということだ。彼らが戦争へ向かうのは、単に平和を信じられないからである。

ここで私は、これら4つの戦争党グループの意見や理論をそれぞれ検討したり、その浅はかさを証明するつもりはない。経済的な困窮への万能薬と戦争をとらえている4番目のグループについてのみ取り扱うことにしたい。それは4つのグループの中でも、そもそも規模も影響力もはるかに最大のものである。その支援がなければ他の3つのグループは消え去る運命にあるため、余計彼らのその立場の克服と彼らを否定する可能性を示すことが意義のある任務となる。実に、残りの3つのグループがその指導原則を立証するにあたってグループ4の戦い方から非常に助言を与えられているため、平和に向けたこのグループ4の戦いで勝利を収めるほうよりはるかに有益と思われる。グループ4の武装解除に成功したら、残り全ての力を弱めることもできる。 

30.ユダヤ人のヨベルの年(※2)

※2(訳注):ユダヤ教の50年に1回の聖年。この年には、それまでの債務が帳消しにされた。

31.われわれが享受する分業やそれによる文明的な豊かさは金(きん)のおかげである。だが、金(きん)のおかげで、より多くの部分の富が、その最もよいものまでが、居候のものとなってしまうのだ。金(きん)こそが、資本主義の父親である。(貴金属としての)物質的そして(法的な支払手段としての)法的な特権のおかげで、財の取引がお金に依存する点において、金貨は他の商品とは異なる地位を獲得した。そのため金貨は一般的な貯蔵手段になり、金利が支払われない限り手放されなくなった。遅かれ早かれ政府が交換手段として流通させたお金は全て、貯蓄をする人たちの金庫にしまわれたため、交換手段としての働きをさせるには、流通しているお金はすべて再び貯金箱から出るように金利負担のついた形で市場に登場させなければならなくなる。交換手段と同時に貯蓄手段としてのこうしたお金の二重の使用はその本性上両立するものではなく、交換手段の乱用とみなされるべきである。財の交換が利子のつくお金でのみ可能となるため、金利が広く商品生産の前提条件となる。プルードンによるとお金は市場や商店、工場や各「投資」(投資物件)の扉の前に立ちはだかり、金利が支払われない、あるいは支払えない者は何人たりとも通さないところでは流通しない。

そのため、金(きん)と分業と同時に、平和に取って大きな障害となる金利が世界に登場した。分業そのものは金利を要求しない。誰が何のために金利を支払わなければならないのか。分業は誰かの特権ではなく、誰もが享受できるものなので、すべての人を広く豊かにするものである。だが、神がかり的な力を持つ金(きん)を人が手放すのは金利という条件があってのことであり、人類を貧者と金持ちに分離する。これはまるで、嫉妬深い人類の神が権力の増大を良しとせず、自分の手綱を切って人類が独立宣言をするのを恐れ、それを防ぐために「分割し統治せよ」の原則に従って金利を、人間を分け隔てる細菌として人類に植え付けているようだ。金(きん)はすべての人々の生活が一緒に豊かになるのを許さない。自由な人間と関係を持つと、金(きん)はストを起こし自らの仕事を拒絶する。金(きん)は主人と召使を望む。こき使われる人間と居候である。自由で誇り高く本当に自立した人々が思いのままに金(きん)を使おうと求めることにはそもそも無理がある。金貨と自由な人々の生活は両立できない。金(きん)は登場した最初の日から一貫して、人類がお金の特性を金(きん)に与えたため金(きん)が持ってしまった莫大な力のゆえに、人類を労働者と道楽者に分断し続けている。

汗を流し悪態をつきながら労働する階級と、彼らに寄生する道楽者に人類が2つに分けられたために、了見が狭く陰険で嫉妬深く愚かな人間が育つことになり、長い歴史のどこにあっても犯罪の話に事欠くことはない。金(きん)は経済的には私たちの偉大な盟友になると同時に、人類の宿敵にもなった。金(きん)は神の国の地上へ建設するのを妨げるような経済状況を自ずと作り上げる。金(きん)とともにあってはキリスト教は人類に定着することができない。キリスト教は分業や誇り高く自由で豊かな人間性とよく調和するのは確かである。だが分業の基盤が金(きん)であれば、キリスト教はその場を退かなければならない。こうしてキリスト教は分業が行き渡った土地全てから消え去り、今日すべての民族についてこのことが言える。キリスト教と金利は相容れないのは明らかだ。その一方、金(きん)は山師や投機家、居候や犯罪者、牢獄や謀反、さらに暴力などと相性がよく、それはすなわち金(きん)と金利は仲がよいということなのだ。

こうして金(きん)は、市民の平和を犠牲にすることによってのみ分業を思いのままにしているのだ。

32.自由貨幣の説明

自由貨幣は1,5,10,50,100,そして1000マルク紙幣が発行される。これらの紙幣のほか、上記の見本に見られる補助紙幣も発行されるが、それは切手のようにデザインされ、 ミシン目をきるような形で1マルクに満たない額の支払いに使われる。そして切手は1, 2, 5, 10, 50ペニヒ硬貨のかわりとなる(同時にこの切手は、週が代わるたびに流通する紙幣に張られることで紙幣の額面を維持することにも役立つ[2を参照])。公共の銀行窓口に運び込まれる切手は売られることはなく、常に新しい切手で代替される。

自由貨幣は毎週額面の0.1%を失い、それは所有者が負担する。前述の切手を貼ることで所有者は紙幣の額面を保つことができる。そのため、例えば241ページの見本にある100マルク紙幣は、切手が貼られているため8月10日までこの額面を保つことができる。この紙幣の受取人は、当然その損失を回避しようとするため、そのお金をできるだけ早く使おうとするというのも、9月10日までのんびりと手元にこのお札を持っていたとすると、10ペニヒ×5=50ペニヒをあとから支払わなければならず、彼は10ペニヒ切手を5枚切り取って100マルク紙幣に貼り付ける。すると通貨の流通が促され、現金決済がすぐに行われ債務は償還され、それでも残ったお金は急いで預金口座に持ち込まれるのだが、銀行でも金利の下落のためにお金の借り手を急いで探そうとする。

年末に全ての紙幣は新しいものと交換される。

自由貨幣の目的:とりわけ、お金の優位の否定である。この優位は他でもなく、従来のお金が劣化しないという特権を商品に対して持っていることに原因がある。われわれの労働生産物にはかなりの保管や維持コストが必要となるが、そのコストをかけてもその荒廃を遅らせることしかできず、阻止はできないのに対し、お金の所有者はお金の素材(貴金属)の持つ性質により、そのような損失を免れている。お金の所有者(資本家)はそのため、取引をいつでも行える。商品の所有者がいつも焦っていても、彼は待つことができる。価格を巡る交渉が決裂すると、その損害を結局食らうのはいつでも商品の所有者、そして最終的には労働者である。商品の所有者(労働者)に対して圧力をかけ、彼らの労働生産物(労働力)を低い価格で買い叩くために、資本家はこの状況を利用する。

通貨当局側からこれらの紙幣は買い戻されることはない。だかそれはどうしてだろうか。お金はいつでも必要であり、そのため買い戻しの義務は想定されていない。だが通貨当局は、平均物価を安定させるべく、市場の状況に合わせてこの手のお金を発行する義務がある。そのため通貨当局は、物価が下がり気味のときはより多くのお金を流通させ、物価が上がり気味のときはお金を引き揚げるが、というのも物価は最終的に供給されたマネーサプライ次第だからである。そもそも、通貨当局から流通に出されたお金が速やかに商品に対して供給されるようにするのが、自由貨幣の役割である。それ故通貨当局は以前同様眠りこけることはなく、どうしょうもなく腐敗した、詐欺師や山師そして悪徳商人を利するような、いわゆる金(きん)の内的価値に基づく国の通貨制度をあてにすることもなくなり、詐欺師や山師、そして悪徳商人を利する金(きん)の謎めいた言わいる内的価値はこの通貨制度では必然的に信用されなくなるが、目的を持って堅実に運営される誠実な事業をあらゆる事故から守るようになる。

貿易の重要な意義を考慮に入れると、安定した為替レートを実現するために国家間の協調を目指さなくてはならない。それが達成されない限り通貨当局は通貨発行の基準として国内の物貨安定を選ぶか為替レートの安定を選ぶかの二者択一を迫られることとなる。通貨当局は、国内物価と為替レートのどちらかの安定の選択を迫られることになる。

この自由通貨への金属通貨の交換は完全な自由意志に委ねられるべきだ。金(きん)にこだわる人はそれを手元に残してもいいが、すでに銀に対して起こったように、金(きん)は自由な通貨鋳造権を失い、硬貨は法的な支払手段という特性を失う。交換期限後は硬貨は国庫や裁判所では受け取ってもらえなくなる。

外国での、あるいは外国からの支払いでは従来通り、銀行や流通業者が外国で引き渡され、あるいは外国で購入された商品の売上益としての売りに出す手形が使える。小額の場合は従来通り郵便為替が使える。

輸出のために国内の生産物を入手し、そのためにのみ金(きん)のみ持つ人は、輸入手形を調達できなかった場合、通貨当局から金(きん)を買い取ってもらう。逆に外国製品の輸入のために金(きん)を必要とし、輸出手形が調達できない人には、通貨当局が必要な金(きん)を売る。金(きん)の価格については6節の問いの答えを見ていただきたい。

年5.2%の為替相場の下落を通じて、流通する通貨量は毎年2億~3億マルク減る。だが通貨不足が起きないように、通貨当局はこの数億マルクを常に新しく生産されたお金で毎年埋め合わせなければならない。これは、当局にとっての定期的な収入とする。

金詰まりを解消することに伴う通貨当局の収入はお金の改革による意図せぬ副産物であり、他に比べてそれほど重要なものではない。この収入の利用については、特別な法的措置が必要となる。

33.自由通貨の導入で中央銀行は紙幣発行権を奪われ、そのかわりに日々のお金の需要を満たすことを使命とする政府通貨局が登場する。

政府通貨局は銀行業務を行わない。小切手の売買は行わず、企業のランク付けも行わない。決して個人との関係も持たない。

国内でお金が不足しているときに政府通貨局はお金を発行し、お金が余っているときには回収する。それだけである。

自由貨幣を市場に流通させるためには、現在の金属通貨と政府の銀行為替を自発的な交換で、そして額面価格で交換されることを全ての政府窓口が知らされてなければならない。金(きん)1マルクに対して自由貨幣1マルクである。

34.そこで、金本位制によっては安定した為替相場と一定した物価を同時に期待することはできず、それは世界中の国々で物価が安定したときに両者がはじめて達成されることが外国に示される。 そのため、外国為替の安定を達成するためには、国内の物価の安定へと、至る所で努力しなければならない。どこの国でも同じ原則のもと運用されている国内通貨だけが、世界貿易での為替の安定や、同時に国内における通貨制度を可能とすることができる。これは諸外国でも今やっと理解されたように思わる。つまり、あらゆる国による紙幣制度会議が招集され、世界通貨局が創設されるべきなのだ。

35.売上とは何か。販売である。販売とは何か。お金と商品との交換である。お金はどこから来るのか。商品の販売から来る。そう、これは循環している。

自由貨幣の場合、お金は所有者にいわば購入を強いるわけで、購入を遅らせるときに被る損失を通じて、消費者としての義務を常に意識させる。こうしていかなる時、いかなる状況でも購入は販売の直後に行われる。販売した分だけ購入しなければならないとするなら、売上が停滞することはあり得るだろうか。こうして自由貨幣はお金の循環を完結する。

36.われわれは、もはや富豪や銀行家や山師が遊ぶためのボールではない。よく言われるように、「景気」が回復するまで頼りにならない神の恵みのもとで待つ必要はもはやない。われわれは需要、つまりお金を今や意のままに制御し、その製造や供給を支配下に置き、お金自体が需要なのである。このことは何度強調してもしすぎることはない。今われわれは需要を観察し、その把握や測定もできる。ちょうど供給を観察し、把握し、測定できるように。商品が多ければお金も多く必要で、商品が少なければお金も少なくていい。これが国家通貨局の方針である。

37.少なくても私の財産は保証される。常に資本が投機にさらされているならば、金利は何の役に立つのか。物価とともに景気動向も上下するように、財産の保持のほうが獲得よりも難しいことは広く知られている。投機家の巨大な財産は破産した他人の財産から成り立っているのである。

38.今日お金の流通はもはや条件ではない。お金=売上、これらは1つであって、これは共に足並みをそろえている。お金=商品の販売=労働=お金となる。この循環はどんな状況でも閉じられている。

39.今では自由貨幣で、状況はすっかり変わった。お金は所有者の意向や気分を気にかけない。お金はとにかく命令し、自らの力で注文を生み出す。

40.そしてこうして、自由貨幣は政府の職業安定所のかわりに自動的に雇用保障の働きをするようになった。自由貨幣は自動的に職業安定所となったのだ。私とその7万6000人の職員は失業し路上に投げ出された。職業安定所の職員がこの国で唯一増大の失業者であるとは何という皮肉か。

41.お金のほうを変えることができるのだから、どうしても必要であるならお金を自分たちがのぞむように変えてしまおう。われわれがお金を商品のレベルにまで下げれば、われわれは商品の全ての醜い特性を一般的にそれに合わせる形でお金にもつけることができる」

42.紙幣の専権や中央銀行を無視して、「投機」次第で物価が上昇するのであれば、中央銀行に意味はあるのだろうか。

43.消費の減少が危機の原因であるという理論も不十分である。消費の減少は所得の不均等な分配の結果である。この理論では、なぜ今日売上がやみくもに増え、しばらくしてから突然減少するのかや、いつも見られる原因(ここでは所得の不均等な分配)が衝撃的結果(好況と危機)と向かい合っているのかが明らかにされない。所得の分配が危機の原因であれば、それはいつも見られる出来事であり、誰の目にも明らかな状況であるが、この考察が示すのはそれから考えられるのとは逆の効果である

44.企業家による仕事の続行のために、政府が直接低金利で、必要ならば無利子で資金を提供することが提案されるだろう。こうして政府は常に再び貯蓄者や資本家が流通から引き上げたお金を新たな発行を通じて補填することになる。だがこれでどうなるだろうか。一方では資本家に紙幣の山が使用されないまま残り、もう一方では政府の国庫に企業に求められるほどのそれに相当する抵当証券や手形、場合によっては長期手形や解約不能の抵当証券が残るのだ。

個人が積み上げた紙幣の山(結局、全個人資産はこの形を取るのだ)はいつでも何らかのきっかけで動き出し、このお金が市場で自由に流通しながら商品と交換されて清算されるため、この大量の紙幣が突然巨大な需要と化し、それに対し政府は抵当証券や長期手形で対抗できない。こうして物価はひたすら上昇する。

45.賃金! 賃金とは何だろうか。賃金とは、消費者(企業家、流通業者、工場主)が生産者(労働者)から引き渡された商品に対して支払う対価である。この対価は、他のすべての商品のように期待される売却価格を元に算定される。借地料や資本金利を引いた売却価格がいわゆる賃金である。そのため賃金の法則は、借地料や資本利率法則の中に含まれている。地代や金利を引いた商品価格が賃金である。それ故、特別な「賃金法則」はない。「賃金」という単語は経済学においては不要だ、それは賃金と価格が同一のものだからだ。商品価格の成立を知れば、私には労働者がどれだけ自分の生産物で得ているかもわかる(※3)。

46.自由貨幣のおかげで私はこの認識を得ることができた。自由貨幣のおかげで私はまずあらゆる価値についての「虚偽」の価値学説から解放され、自由貨幣の存在はすべての価値学説や価値信仰に対して現実に見て取ることのできる反証となっている。価値信仰の次に経済学の研究には全く使えない「労働」という概念が来る。だが労働とは何なのか。労働は腕の動きや疲労感ではなく、労働生産物でのみ測定できる。今や墓で眠るジェームズ・ワットは、世界中のすべての馬がやっている以上の仕事を今日でもしている。労働ではなく、労働の成果(生産物)が問題なのだ。生産物は購入され、それに対してお金が支払われる。いわゆる化粧しっくい細工を見ればはっきり分かる、基本的に全ては出来高払いの仕事なのだ。

まったく、商品の購入は商品の取引なのである。経済全体はそれぞれの交換取引に分割され、「賃金」や「価値」、それに「労働」といった私の概念は全て、「商品」と「交換」という2つの概念の完全に無意味な言い換えだということが明らかになる。

47.従来の一般的であった紙幣に関してである。自由貨幣では、どんな通貨管理政策もその流通強制力のおかげで直接有効となり、安定した為替相場の維持のためにいかなる準備金も不要である、という私の主張は無条件で妥当する。

48.ロビンソン「そうだ。だがそうすると、なぜあちらの私の故郷では蓄えを持つ者に利子が入ってくるのか不思議だ」

異邦人「その理由は、あちらでこのような取引を媒介しているお金にあるんです」

ロビンソン「どういうことだ? 金利の原因がお金にあるというのか? そんなはずはない。お金や金利について、マルクスはこう言ってるぞ。『労働力は金利の源泉である。資本に転じるお金の金利はお金に由来するものではない。お金が交換手段だというのが正しいのであれば、お金は購入する商品の価格を支払うためのものに過ぎない。そのままにしておいても、お金の価値は増えはしない。そのため、購入された商品に由来する剰余価値(金利)はより高く売られなければならない。この変化は売買時には起こらない。取引の際は等価物が交換されるためだ。そのため、仕入れと小売の間に、商品の使用価値が変わってくるという結論に達せざるを得ない』(資本論第1巻6章)」

49.ここで展開する金利理論の正しさを証明する試金石として、また昔からの偏見にとらわれた読者にまさにこの問題についての正しい理解を深めてもらうために、私はこの部をロビンソン・クルーソーの寓話で始めることにする。

前置き:ここではできるだけ短くするために、普通はある経済的競争の影響のない形で融資契約を説明しよう。融資契約に経済的競争要因がからんで、融資される側(異邦人)により多くの融資する側の人々(ロビンソン)が登場すると、ここで書かれているよりも融資される側にとって契約が非常に有利になることがある。2つ目の前提は、両者が自由土地の原則を踏まえて契約するというものだが、それは争いや強奪が可能な状況のもとでこれが認識されていなければ、契約は成り立たないからだ。

ロビンソンは運河を建設し、今まで労働し続けてきた3年間の蓄積を持っていることとした。豚を屠殺し、肉を塩漬けにし、地面を掘った穴に小麦を入れて、それに慎重に土をかぶせた。鹿皮をなめし服に加工し、木箱の中に入れてカギをかけ、虫に食われないようにスカンクの匂いをかけた。

つまり、彼はその後3年に向けてきちんと備えたのである。

ちょうど自分の「資本」が計画した事業に十分なものであるかについての最終的な計算をしていたときに、ロビンソンは誰かが近づいてくるのを目にした。

新来者は近づいてきて、ロビンソンに挨拶した。「私の船が沈没してしまったので、私はこの島に上陸しました。私が畑を開墾して、最初の収穫を上げるまで蓄えを貸して私を助けていただけませんか?」

このことばを聞いてすぐにロビンソンは、自分の蓄えから利息が取れるのではないか、また楽に金利生活ができるのではないかと思い、即座に彼はその申し出を受け入れた。

「助かります」と異邦人は答えた。「だがまず、私は金利を払う気がないことを断っておきます。金利を払うぐらいなら私は狩りや魚取りで生活したほうがましです。私は、金利を受け取ることも支払うこともしないことを信条としていますので」

ロビンソン「そりゃあすごい信条だな。だがどうしたわけで、お前が金利を払わないのに私が自分の蓄えのくらかをお前に貸すと考えるんだ?」

異邦人「ロビンソンさん、利己心からですよ。しかるべきあなたの利益を考えれば、そうなりますよ。というのも、あなたはかなり得するからです」

ロビンソン「どこから北のかは知らんが、まずそのことを私に説明してもらわねば。正直、金利なしで私の蓄えを貸したところでどんな得があるのか私にはわからんな」

異邦人「今から説明しましょう。私の説明に納得していただければ、あなたも無利子融資してくれるでしょうし、むしろ私に感謝するでしょう。まず、ご覧の通り私は裸ですので、服が要りますね。服の余りはありますか?」

ロビンソン「タンスに服は詰まっているが」

異邦人「ロビンソンさん。私はあなたをもっと賢いと思っていました。釘で閉じた木箱に鹿皮の服を3年間も入れておいたら、虫に食い荒らされるだけです。それに服にはいつも風を通して油を塗っておかないと、硬くパリパリになってしまいます」

ロビンソン「確かにそうだが、他にどうすればいいんだ。洋服ダンスに入れても変わらないだろう。かえってネズミにやられる」

異邦人「木箱にだってネズミは入ってきますよ。もうやられているんじゃないですか」

ロビンソン「その通りだ。だが、どうしようもないだろう」

異邦人「ネズミを前にして打つ手がないとは、本当によく考えたのですか。私がここでネズミや虫、泥棒や破損、ほこりやカビから守る方法を教えましょう。私に服を貸してもらえれば、あなたが必要なときに新しい服を作るとお約束しましょう。ロビンソンさんは貸したときど同じ新品の服を受け取ります。この服は新しいですから、あとでこの木箱から出す服よりもはるかにいいものですよ。おまけにスカンクの匂いもつけなくていいのです。これでいかがですか?」

ロビンソン「そういうことなら木箱の中にある副をお前に譲ろう。この場合、金利なしに服を貸しても確かに私の得になるわけだ(※1)」

※1:この状況と同様自明なのは、今日まで金利理論家の誰もこの利点を認識しなかったという事実である。プルードンでさえ、これに気づかなかった。

異邦人「今度は小麦を見せていただけませんか。パンや種まきをするのに要るもので」

ロビンソン「それならあっちの持った土の中に埋めてるよ」

異邦人「3年間も小麦を地面の中に埋めるというのですか。カビや甲虫に食われてしまいますよ」

ロビンソン「もちろんそうだが、じゃどうしろというのか。いろいろ考えたが、これが最善策なのだ」

異邦人「ちょっとしゃがんでみてください。甲虫が地面をはっているのが見えますよね。ゴミはどうでしょう。ここにはカビも生えてますね。今すぐ小麦を取り出して、風に当てなければいけません」

ロビンソン「この資本は絶望的だ。数多くの自然の破壊力から守る術を知って入れば…」

異邦人「ロビンソンさん、よい方法をお教えしましょう。乾燥した風通しのよい小屋を作り、そこのしっかりとした床の上に小麦を広げます。そして3週間ごとに注意深くシャベルで小麦全体をひっくり返して、風を通します。また、何匹かネコを飼ったり、ネズミ捕りのワナを作ったり、防災に気をつけて、毎年の減価率を10%を超えないようにするのです」

ロビンソン「しかし、かなりの費用や労力がかかるんじゃないか」

異邦人「費用や労力を惜しんでいらっしゃいますよね。それでしたら、どうでしょう。あなたの蓄えを私に貸してもらえれば、きっちり同量の小麦を私の新鮮な収穫物で返しましょう。こうすれば、わざわざ倉庫小屋を作る手間も省けますし、小麦をひっくり返したり、ネコも飼ったりしなくていいですし、蓄えたものの品質が悪くなることもありませんし、古くなった穀物のかわりに新鮮でみずみずしいパンを食べられるようになります。いかがでしょう」

ロビンソン「それは願ったりかなったりだ」

異邦人「つまり、私に無利子で穀物を貸してくれるわけですね?」

ロビンソン「そうだ。利子を取らず、むしろ借りてくれたことに感謝しよう」

異邦人「けれども、私が使うのは一部だけです。全部は必要ないです」

ロビンソン「たとえば、小麦を10袋貸して9袋返してもらうという条件で、小麦を全部貸すのはどうだ? 」

異邦人「せっかくですが、この申し出は受けられません。というのが、私はプラスの利子だけでなく、マイナス利子も受け取れないからです。この場合、貸した人間ではなく借りた人間が資本家になります。けれども、私の信条では利子による商売が禁じられています。マイナス利子によるものも禁じられています。ですので、蓄えた小麦の管理や倉庫小屋の建設、他にも必要なものがあれば私に任せてもらうというのはどうでしょうか。そのかわりに、小麦10袋あたり2袋を毎年賃金として支払ってくださいませんか」

ロビンソン「私にとっては、利息だろうが労働の対価だろうがどうでもいい。つまり、私がお前に10袋貸して、8袋返してもらうということでいいんだな?」

異邦人「それから私は鋤や荷車など他のものも必要です。それについても無利息で貸してくれますか? 私は鋤も鎖も、おんなじ状態で全てを返すと約束します」

ロビンソン「ああ、もちろんいいとも。私にはやらなくてはならないことしか残っていない。最近、小川が氾濫して倉庫が水浸しになって泥だらけになってしまった。それから嵐で屋根が飛んでしまい、雨で全てがダメになった。今度は干ばつが来て、倉庫の中は風のために砂やほこりだらけだ。サビ、腐敗、破損、乾燥、日差しや暗闇、それに木を食うアリのために、私のやらなくてはならないことにはきりがない。まあ、ここには泥棒や放火魔がいないだけましではあるがな。借りてもらうことで、費用もかからず労せずしてあとでこれらを今と同じ状態で使うことができる」

異邦人「ようやく、無利子で私にあなたの蓄えを融通するメリットがおわかりになったようですね(※2)」

※2:クヌート・ヴィクセル「価値・資本と地代」83ページ「今ある財は将来少なくとも同じ価値を見込め、必要であれば将来の利用に備えて単に『保存』することもできるとベーム・バヴェルクは主張しているが、これは明らかに行きすぎだ。もっともベーム・バヴェルクもこの規則の例外、つまり氷や果物のように腐敗する商品に関しては別だとしている。だが、多かれ少なかれ食料品であれば全てが例外の対象になる。確かに貴金属や宝石以外には、将来に向けて保存しておいても特別の手間や配慮がかからず、火事などの災害でも損なわれることがない財はないかもしれない」

(金(きん)や貴金属、それに有価証券は現在どの銀行でも個人使用の部屋に入れられている。だが、「現在と将来を比べて」少なくともその額面が落ちない財であっても、使用料を払わねばならない)

ロビンソン「そうだ。だがそうすると、なぜあちらの私の故郷では蓄えを持つ者に利子が入ってくるのか不思議だ」

異邦人「その理由は、あちらでこのような取引を媒介しているお金にあるんです」

ロビンソン「どういうことだ? 金利の原因がお金にあるというのか? そんなはずはない。お金や金利について、マルクスはこう言ってるぞ。『労働力は金利の源泉である。資本に転じるお金の金利はお金に由来するものではない。お金が交換手段だというのが正しいのであれば、お金は購入する商品の価格を支払うためのものに過ぎない。そのままにしておいても、お金の価値は増えはしない。そのため、購入された商品に由来する剰余価値(金利)はより高く売られなければならない。この変化は売買時には起こらない。取引の際は等価物が交換されるためだ。そのため、仕入れと小売の間に、商品の使用価値が変わってくるという結論に達せざるを得ない』(資本論第1巻6章)」

異邦人「この島に来て、どれだけになりますか?」

ロビンソン「30年になるが」

異邦人「やはりそうでしたか。まだ価値学説を信じているようですね。ですがロビンソンさん、この理論はすでにすたれた過去のものなのです。今や価値学説論者はいませんよ」

ロビンソン「何だと? マルクスの金利理論が過去のものだというのか。そんなことはない。誰も主張しなくても、私はこれにこだわるぞ」

異邦人「そうでしたら、言葉だけでなく行動もそれに合わせてください。あくまでもそうされるなら、私と対立することになりますね。たった今あった話も白紙です。あなたのここでの蓄えは、その本質的規定に従えば普通資本と呼ばれているものの最も純粋な形式です。私は、あなたの資本家としての立場にあえて挑戦します。私はあなたの持っているものが必要です。あなたの前に姿を現した私ほど裸一貫の労働者はいません。資本の所有者と資本を必要とする個人との関係が、これほど純粋にあらわになったことはないでしょう。取れるものなら私から利息を取ってみてください。もう一度、最初から取引をやり直しましょうか?(※3)」

※3:前書きを参照のこと。

ロビンソン「わかった、私の負けだ。ネズミや虫、それにサビのために私は資本家としての力を失った。だが、金利についてお前はどう説明するんだ?」

異邦人「このことは簡単に説明できます。もしこの島に貨幣経済があって、遭難者として私が融資を必要としている場合、先ほどあなたが無利子で貸してくれたものを買うために、今度は金貸しのところに行かなければなりません。だが、金貸しはネズミや虫、サビ、火事そして屋根の損傷に悩まされることがないので、私はあなたに対して取ったような態度を取るわけにはいきません。商品の所有から切り離せない損失(たとえばあなたや私の鹿皮を犬が食いちぎったり)は、金貸しではなく商品を保管している人だけが受けるため、金貸しはそういったあらゆる心配と無縁です。あなたを打ち負かした議論でも影響を受けません。私が金利の支払いを拒否したら、あなたは鹿皮の服の木箱を開かないでしょう。しかし、資本の性質上、あなたは交渉を続けなければならなくなります。お金の資本家はそうではありません。もし私が金利を払わないといったら、彼は私の面前で金庫への戸を閉めてしまいます。ですが私にとって必要なのはお金そのものではなく、お金で買うつもりの鹿皮の服なのです。私に無利子で貸してくれた鹿皮の服にではなく、それを買うためのお金に私は金利を払わなければならないわけです」

ロビンソン「ということは、金利の原因はお金に求められるわけか? そして、マルクスは間違っているというわけか?さっきのところでマルクスは『本来の商業資本において《お金-商品-剰余金》、つまり高く売りさばくための仕入れが、最も純粋な形で現れる。他方、お金が流通する範囲の中ではその全体の動きが先行する。流通そのものからお金の資本への変化を説明することができないため、等価物が交換される限りでは商業資本も生まれないのだから、商品生産者たちの間に寄生虫的に割り込み流通業者のために生産者が売買する際に二重取りの形で生まれる余剰利益にその原因が求められなくてはならない。商業資本の利用が商品を生産する者たちからの一回限りのピンハネによって説明されないのであれば、それは一連の仲介行為に求められなくてはならない』(マルクス「資本論」第6版第1巻127ページ)とも言っておるぞ」

異邦人「これも完全に間違っています。彼は全経済の中枢神経ともいえるお金について間違ったために、全ての面で間違うことになったのです。彼はそのすべての弟子たちとともに自分たちの考察の範囲からお金の存在を排除する過ちを犯したのです」

ロビンソン「このことは私たちの融資の交渉を見ればはっきりする。マルクスにとってお金は単なる交換手段だが、単に『購入する商品の価格を支払う』以上のことをお金はしているようだ。金の借り手が利息の支払いを拒否すれば銀行家は彼らの面前で自分の金庫の扉を閉めることができ、商品(資本)の所有者がしなければならない管理の悩みからは無縁であり、商品に対して持っているお金の一貫した優位性にのみ感謝する。これこそが、問題の根源であるわけだ」

異邦人「ネズミや虫、それにサビにこれほど物事を明らかにする力があろうとは」

48.奇妙だが、お金とともにマルクスも金利の考察から研究を始めている(※1)。だが、不幸にも決定的な地点で(プルードンの警告にもかかわらず)彼は誤った前提に基づいて研究を始め、ちょうど普通の資本主義的な金利研究者がお金と商品を完全に等価(※2)として扱うのと同様の過ちを犯した。

※1:この箇所で、私がなぜマルクスの金利理論の部分に言及するかというわけは、単に社会主義の諸理論の中でも彼の理論だけが今日まで政治闘争に影響力を持っており、教義にまで高められたマルクスの金利理論を地雷や手榴弾でつぶした社民政党の両グループが証明したように、プロレタリアにとって百害あって一理なしの存在であるからだ。

※2:互いに完全に対等の立場に、何もつけたすことなしに交換される2つの商品があるなら、それは「等価物」であると言える。例えば、高利貸や貯蓄家、またはケチな人間が、商品やお金のどちらを貯め込むべきかを考え、常に自分たちが選択する目的にとってどちらも同じであるとすれば、必然的に金(きん)1マルクの価値と1マルクの商品の価値は同等だということになる。だがもし貯蓄家と投機家が、1マルク紙幣の金(きん)が自分たちの目的にとって1マルク相当の商品の価値より望ましいと結論づけるなら、同価というマルクスの仮定はもはや成り立たない)。

この不幸な誤解のために、マルクスは最初から間違った道を進むこととなった。

49.※10:1907年に米国を突然席巻した有名な危機で、3億ドルの金(きん)の融資で政府の「緊急救出」を行ったのはモーガンだった。このドルはどこから来たか。これはすぐに必要とされたドルだった。モーガンは以前にそれだけのお金を流通から回収しており、こうして自ら国を窮地に陥れ、株の暴落が起きその利ザヤが手元に入ると、こっけいにも今度は祖国愛から政府にこのお金を寛大にも差し出したのだ。

だがもし融資に提供されたお金が、たとえばアラスカから直接来た新しいお金であれば、この新しいお金は物価を上昇させ、それゆえ事業のためお金を借りる必要のある人全てが、物価の上昇分より多くの融資を必要とする。同じ家を建てるのに、1万マルクではなく企業家は1万1000、1万2000、あるいは1万5000マルクが必要となり、新しいお金による融資供給の増加のため自動的にそれに対応する融資の必要増を引き起こす。こうして金利における新しいお金の影響は再びすぐに相殺される。

50.金利は、お金という独立した資本の産物であり、中世の盗賊騎士や、最近まで政府が徴収していた通行料にたとえるのが最も適当である。お金の金利は、財産(現実資本)にかかる金利には影響されず(だがおそらく逆は真実)、お金の貸し手同士の競争は金利に影響を与えない。金利の制限は他の交換手段(手形、バーター、原始経済)との競争によってなされる。

51.お金にかかる金利を、ここからは「基礎金利」(※12)と呼ぶことにする。

※12:金利に対する「基礎金利」という用語の使用は(家などの現実の材にかかる金利に対して)、2つの形態の金利の違いの区別をしやすくするためのものである。

52.資本金利は国際的なもので、一国だけで廃止できるものではない。もしドイツの住宅が金利を生まなくても、フランスではまだ入手できるのであれば、ドイツでは住宅は建築されなくなるだろう。フランスの手形を購入してドイツの資本家は彼らの剰余金を国境の外に持ち出し、その収益でフランスに住宅を建てることだろう。

そのため、以下の2点を証明しなければならない。

金利を溺死させるのに必要な現実資本の海を近いうちに形成するのに、権限や手段を欠いてはいない。

借家や工場や船といった現実資本を生み出す刺激や意志が、金利を生まなくなっても衰えないこと。

53.金利の見込みがなくても自然に貯蓄は広く行われる。貯め込んだものが金利ではなく敵を生むことになっても、ハチやハムスターは貯蓄をする。金利を知らない原始部族も貯蓄する(※3)。文明人はどうしてこうではないのか。貯蓄するのは住宅建設や結婚、病気や老後のためで、そしてドイツでは、葬式や墓地のためでさえある。だが、埋葬は死人に金利をもたらさない。そしてそもそも、プロレタリアがいつから貯蓄銀行で貯蓄をしているだろうか。以前、マットレスに隠されたお金は金利をもたらしただろうか。だがこれらの形態の貯蓄は30年前まで普通だった。冬の備蓄も金利はもたらさなかった。それどころか不愉快なものであった(※4)。

※3:アフリカのニグロ族やホッテントット、それに米国のモヒカン族は自分の貯蓄から決して金利を受け取ったことはない。しかし、彼らの中で誰も自分の貯蓄(蓄え)をプロレタリアの貯蓄(預金銀行通帳)と交換しようとはしないだろう。

※4:中世の教皇による金利の禁止が貨幣経済の成長を妨げた(貴金属の不足がその原因だが)ということで、貯蓄への衝動は金利のようなものがなくても起こることがわかる。貯蓄者はお金について誤解していたのである。

54.フォルボネー(※2)の影響を受けたゾンネンフェルス(※3)は、金利の由来がお金を貯めた資本化がお金の流通を疎外することの中に見出し、彼らの手からお金を再び取り戻すためには利子の形で貢租を提供するしかないことを発見した。彼はさまざまな悪影響を金利のせいにした。たとえば商品価格の上昇や、お金の所有者がそれを横取りするために起こる勤勉さへの対価(要するに労働収益)の減少である。そう、彼は資本家を、自らは働かず労働者階級の汗で食っている階級だと呼んでいる

55.つまり、人々からの強奪に多くの人が参加し、そこで異なった武器を利用するかもしれないが、これらの武器は全てさびるのに対し、金(きん)だけが決してさびず、遺産分割や法や協同組合的、あるいは共産主義的な組織のいずれもそれから利子をもぎ取る徴収力がないことを金(きん)のみが誇ることができる。お金への金利は、それ自体、そして教皇による破門にさえ守られてきたし、今もそうである。土地の私有制と両立しながら地代の法(土地税)による国庫への転用は可能で、そのような試みもあちこちで始められているが、従来のお金から、金利の一部でさえ奪い取る法律はない。

そのため今あるお金は、搾取理論に不可欠なプロレタリア大衆を生み出し、自然のあらゆるものに及ぶ無常の力から首尾よく守られてきた。正確に言うなら、搾取理論はそれゆえに一段階遡って、工場や生産手段の私有にではなく、お金との労働生産の交換に金利の源を求めなければならない。 労働手段からの人々の分離は、金利の原因ではなく結果にしか過ぎない。

56.だがここで、ある抜け目のない人が「確かに私には金はないが、融資は受けている。私は為替手形で必要なお金を借り、商品や株などを買う。そして手形が満期になると私は今まで買ったものを高く売り、債務を返済し、残りを私の手元に置く」とつぶやいたとしよう。この手の抜け目のない人はたくさんおり、同時期に同じ場所、つまり銀行の待合室に集まっている。小さな工場や店を経営している人の他にも、国の富豪たちもそこにいる。彼らは皆お金に対して底なしの欲望を持っている。だが銀行家はこの人々を目にし、彼らの欲望をすべて満たすだけのお金を自分が持っていないことを知る(もし満足できても、すぐにお金を返しに来て、倍額要求することだろう)。この人々から身を守るため、抜け目のない人々が計画していた事業で得られると期待している利益が上昇する利子による損失を埋め合わせることができないのではないかと感じるまで、彼は利率(割引率)を上げ続ける。こうして均衡が成立する。お金に対する貪欲さは消えてゆき、銀行の待合室は空になる。物価上昇によるお金の所有者の損失はこうして、金利に消えてゆく。

このため、商品価格の一般的上昇による金融資本の損失分を、利率が埋め合わせなければならない。たとえば期待される物価上昇率が年5%であり、基礎金利が3%あるいは4%であれば、金融資本への影響をなくすには融資への金利は8%から9%でなければならない。たとえばこの9%から物価上昇に応じて5%を資本家が差し引き、彼の資本に加えた場合、物価上昇以前と同じだけの利益となるが、これは105=100、つまり、105を手にすることで以前の100と同じ量の商品を手に入れることになる。

57.利率を金利とリスクプレミアム、そして高プレミアムに分割することで、以上の一見説明できそうにない矛盾を完全に満足できる形で解決できる。利率によって、純粋な資本金利だけが労働収益から引かれ、高プレミアムは物価上昇に消える。(物価上昇につられて賃金も上昇する)労働者は、高金利とは結果的に全く関係ない。彼は商品を高い価格で購入し、それ相応の高い賃金を受け取る。こうして均衡が達成される。お金を借りた人は高い金利を支払うが、高い価格で商品を売却する。こうして均衡が達成される。資本家は自分のお金をズタズタにされて返却されるが、その分高利によって利益を得る。ここでも均衡がある。貯蓄の増加の説明のみがまだ欠けている。この理由は物価の一般的な上昇、産業界の好調時(好景気)で働く機会に事欠くことがなくなるという事実に求められなければならない。

そのため、金利そのものではなく利率の上昇が、貯蓄銀行の預金を同時に増やすのである。

58.これらの数字が意味するのは、2000年前に600年間も続き、今日とほとんど同じだけの影響を持った状況のおかげで金利が存在しているということだ。この状況や力やものとは何か。これまでの金利理論の中で、この問題の回答のヒントだけでもわれわれに与えてくれるものは何一つない

59.純資本金利の高さが固定しており、3%よりも下がったり4~5%を超えることは決してなく、利率の変動はすべて基礎金利の変動によるものはないことを証明するのに、これ以上の事実が必要だろうか。

60.なぜ金利は決して3%よりも下がらず、なぜ金利は決して一時的にも、1年のうち1日だけでも、100年のうちの1年だけでも、2000年間のうちの100年間だけでも、ゼロまで下がらないのか。