五月の満月は曇りで観えず

人は何を本当に求めるか?

それが健康・平和・自由であると解り、それを演繹して、

個性と社会のテーマまで来た。

自分でもびっくりした発見は

「神仏が個性である」ということだ。

数千年にわたって神(また仏)が人類を創造し、支配しているという観念に縛られている。

それと180度逆転の発想をしたのである。

地球の周りを太陽が回っているから、太陽の周りを地球がまわっているという180度逆転の発想と似ている。

インド哲学におけるもっとも核心的なことは

神我と個我の一体である。神我は宇宙の創造者また真善美であり、個我は人間の個人のエゴのして想定されている。

だが、私はその180度逆転の発想をしたのである。

神我は個人の心の中にあり、外にはない。

人はいままで神仏を求め、そのようになりたいと願っていたが、それが自分自身の心にあり、自分自身の個性を求め、実現することが本当の意味での、神と一体、仏に成るということでもある。

そのため、

今生きている70億人の神仏がそれぞれの心に存在し、それが個性として耀くとき、神仏に近づくか一体化していくことになるという方が自然な生き方であり、他人との宗教や民族、国の戦争などはしなくなる。

個性には優劣はなく、比較もできないからである。

70億の個性はバラバラのようで、それが世界の人類や社会の歯車のように「持ちつ持たれて」いるということである。

人体の細胞のような存在が個性である。

個性が神仏であるという発想はネットで調べる限り、私だけのように思える。

個性と社会をさらに演繹してくと、

なんと、

過去現在未来へと永遠に一方向に進んでいるといういうのがほぼ人類の数前年にわたっての常識である。

だが、

時間のそれも、意識という時空間を超えて、それが脳の記憶からとしても、把握できるということである。

意識はタイムトラベルできる。

そこから、来6月のテーマが自ずと決まった。