生死を超えてタイムトラベル

昨日の満月の夕べは孤独死の後始末について模索していた。

孤独死した本人には死後の周りにいろいろ問題を投げかけることは

まったくわからないが、生前にそうした事態を予測することはできただろうが、

自分の人生だけを考えるだけで良しとすると、

自分を支えている関係者社会へかける問題が見えなくなる。

だが、自分の生死を超えてタイムトラベルすると、生前の反省や未来の予測も可能になる。

それによって、今の自分しかできないことが解ってくる。

孤独死した人を世間は可哀想だと思うかもしれないが、

孤独を楽しむ者にとって、孤独死になることはとても幸せなことである。

「ピン コロリ」という笑い話があるが、生きているときはまったく病気せず

ピンピン健康に楽しみ、突然、自分の意識がなくなり、コロリと死んでしまう。

こうした死に方が孤独の生き方をしている人にはベストの状況だろう。

だが、周りの者にとって、関係ない人にとっては、可哀想と感じるが、関係ある人にとっては迷惑に感じることが多いだろう。

社会にとっても、孤独死した後の問題を反省することによって、社会をどう整備していいかが予測タイムトラベルし、今の状況を改善する道も開けてくる。

うちのアパートの借り人が1か月近く孤独死してしまったことで、初めて、事前にやるべきことを知った。また、後始末のことも法的にどうしていいかも、模索できた。

こうした予測・反省・改生をするのは人間だけでないように思える。

今パンデミックになっている新型コロナだって、どんどん変異して生き延びようとしている。

この変異する生き方は、意識がある生物にとって、生き抜く進化であり、絶滅する退化でもある。

その人の自由は関係者にとって不自由になるし、逆に、その人の不自由は関係者にとって自由につながってくる。

ともに、自由に生きるには、ともに自由に生きれる道を整備することが欠かせない。

なぜ命ある者が意識をもって、タイムトラベルできるかはこうした命をつなげていくには必須だからであろう。

来7月のテーマは、真実不悟になりそうだ。

タイムトラベル意識が正常に機能するには、最初の設定を

真実不悟にしないと、ともに自由に生きられる社会が機能しづらくなるからだ。