まれ変わる


1,生まれ変わるのは自然の理 
 
 四苦八苦を創り出しているのは一つの迷信からである。
もし、
人が植物のように、生まれ変わることが自然の理であると信じられれば、
悲しむ苦が楽しむ苦に換わることになる。
人はなぜ
この人生を一回生とし、死んだらすべて消え去ると信じてしまうのか?
どうして、他の生物と同じように、生死の繰り返しをしないと信じて行動してしまうのか?
その原因がこの世の自我の姿が一つであり、それが変わることがないという自我を信じてしまい、それに固執してしまうからである。
自我の執着に多くの不幸を生み出す原因になっている。
自我の本質を探ってみると、
それが他我と比べてみても、広い視野でその差を眺めてみると、ほとんど差がなく、その信じる自我の一生がほんの一瞬の命の煌めきでしかない。
まして、人間の自我が毎日のように微妙に更新されていることを認めようとはしないし、
身体の細胞の一つ一つがみな数日で新陳代謝しているということを認めようとはしないためである。
真実の姿をみないで、欲望からみた幻想の自我の姿を見ていると観察できるのである。

こうしたけして変わることがないという幻想の自我を最も大事にしてしまうために、真実の自我を見失い、偽物にしてしまうことになる。
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こうした幻想の自我と真実の自我の観察するためには、
我々のみな生まれ変わるということを自然の理として受け入れることが必要になってくる。

2.歳とりて 
   60歳の還暦なると、人はいかに生きるか?から いかに死ぬか?と目的が逆になった考え方をする。
さしせまった問題をまず考えるからである

さらに、
生まれ変わりが日々ごとにある他に
一つの出来事の起承転結が生まれ変わりの小さな一生という感じがする
一日一生は日の出日の入りからの生まれ変わりだが、
一事一生は一つの出来事が物語のような起承転結で始まりと終わりを示す生まれ変わりである。
この一事一生がむしろ、ドラマや映画のような物語になり、人の一生の一コマのようで、人様により近いことになる

一事一生ということで、
これから、
一事の起承転結を表現して伝えてみたくなった。


3.生まれ変わりは挑戦 
   一日一事一生生まれ変わりが真実のようだ
そして、その一日一事一生が挑戦という時空間の新しき姿になる
挑戦というと、それは自分に挑戦ということで、平和なのだ、
他に挑戦は平和ではなく、闘いである。自分との闘いが平和につながる
闘う自分は過去の原因の自分であり、今の自分が実験・挑戦であり、明日の自分が未来の結果になる
つまり、身体の新陳代謝が挑戦という姿なのである。

絶対というものは、生き物にはありえない。鉱物の宇宙においても、絶対がないともいえそうな気がする。

人は自分に挑戦することが生まれ変わる原動力になっていく。
ふりかえっても、
挑戦して、できなかったことはなく、
できなかったのは挑戦していなかったからである。
いわば、過去の自分に逃げ込んでいたのができない、面倒、やるせない、空しい、せつないとうことである。


4.生きもlのは殺さずに自然死に 
   蠅や蚊を殺そうとすると大変苦労する
殺虫剤もお金もゴミもでて、その処理も大変だ
そこで、
掃除機で吸い込むのが一番手軽で苦労がすくない
蠅や蚊は掃除機の中で自然死する
人(自他)を殺すのは人為的で、自然ではない
だが、人は自然死するのが一番平和的安心である
人は生物であり、命あるものはすべて自然から生まれ自然に帰っていく
その流れをとめるような行為は人為的不自然的不安であり、苦悩悲惨の闘いになってしまう。
自分への挑戦は生き物が自然と行う行為であり、それが平和安心へとつながるように思える

こうした挑戦において、不可能なことはない
というよりも、可不可は関係ない
可能性に向かうのが挑戦であるからだ

ダイエットでも、とにかく快適な心身にするべく挑戦をしていくのが自然な行為であろう。
挑戦はまさに新陳代謝なのだから。

生死は最大の新陳代謝であろう

5.生まれ変わりは意志を引き継ぐ人に 
  生まれ変わりは心を覆う服のような身体を換えることである。
それはつまり
亡くなった魂心の意志が新しい身体に宿るかどうかでもある。
その身体は次の世代でも、また、子孫であれ、共感者であれ、その意志を引き継いで
この世を挑戦しようとするときに生まれ変わるとすれば自然な心身の流れである。
自他が共感したり、戦ったりするのは、あきらかに共通の心の欲求があるからである。
身体の遺伝子の伝達は身体の姿や機能であり、心は子孫に受け継ぐかどうかは、子孫がその心を引き継ぐかどうかである。

そして、
その魂の意志とは、古今東西に生きてきた人類の共通の根本的共通的意志が一つあるように思える
それは人類がこの地球上に生き続けていきたいという意志である。
確かに、人類同志が闘いをしてきて、強い者が弱いものをやっつけて生き抜いてきた。
だが、その強さは人類が強く生きぬくという力が源泉であり、強さを意志をもっていきたいという共通の意志があり、
それに、みな協力しているという姿かもしれない。
その強さが武力では弱く、もっと知力があった方がより強く生存可能になってくるというものであろう。
絶滅種の研究と、進化せずまた、進化して生存してきた種の研究と同時に、もっとも必要な人類の魂の意志を貫く力となるように思える。

魂は心に、心は身体に、身体は服に、服は住まいに、住まいは畑に、畑は地球に、地球は炎に、炎は魂に帰る

「何々がしたい」というその何々はもともとあったものだから、何々したいということだろう。

求めるモノは、求める先にあるだけでなく、求める前にあったモノともいえるだろう。

心は身体を求め、身体は心を求める。
ちょうど食事をするようなものである。

 
6.人は刺激・発端 
 
 機械やパソコンが人間の労力を伴わず、多くの作業を可能にした
それは
人が自然に対して、動的な刺激・意志・発意をして、あとは自然に任せるという方法を用いる
これは人為的と自然的との役割を明確にしている
雑草農法はまさに、食べられる雑草を増やし、食べられない雑草を減らすという発意をもって、
計画し、ホンの少し自然に働かせる。
そして、あとは自然に任せ、
その観察によって、修正してまた自然に任せる

知的な自然力は平和的解決をもたらすが、
感情的武力は戦争を激化させて問題を大きくしてしまう。
ともあれ、
問題の解決も、問題を困難にするのも自然力である。
人為的な努力がもっとも効果的に作用するのは発意と自然力をはっきりと把握してかかることであろう


7.生まれ変わることは修理から 
   小さく生まれ変わることは
古きモノを修理して再び使うことである。
大きく生まれ変わることは
何度も修理しても、もう修理不可能である場合において、
新しきモノを買うか、造るかするようなものである。

著作権というのは一時の生活保護であるが、
どんな著作権があるものの、
それを修理、編曲、自分しかできない言葉で表現した場合に、それがオリジナルになる
つまり、
まったくゼロからの新規の著作などありえないものだる。
真似たり、偽物であっても、そこに自分らしさが加えたり、編集すれば、新規の著作またオリジナルになる。
そして、真似られたものも、真似たものも生き直していくものである。

モノは人なり
モノを造るは人なり
造れるモノは人の思いを受け止めて自然に故に人なり
だが、
人はモノではない
モノは人の手をや意志を受け止めてなければ人にはなれない。
人に造られたモノだけが人になれるものである。

人の赤ちゃんは男女の意志によって生まれが、それは人の手を加えられて新しき人が生まれるというものであるように、
人の手が加えられたものは新しき人であるが、
人を生み出す のは自然のモノである。
人は自然が創り出したモノ(生き物)である。
人の男女も、赤子もみな自然に創られたモノであるが故に、
人は人だけでは新しき人を造れない、
自然と人との合作が新しき人であり、生まれ変わる人である。
8.時は真実の足音 
   時は真実がやってくる足音である
事実は過去からやってくる
真実は未来からやってくる
真の己の存在は今だけである。

生まれ変わりは創造である
創造する行為が最も幸せと生きている充実感を与える
創造するはモノだけでなく、それを使う人であり、
新しく生まれ変わる自他である

武田信玄の
人は城垣という方針を
現在の自衛隊に適応すれば
上の者に絶対服従の組織の軍隊ではなく
上下関係なく民衆を守る頭脳と愛の組織に換わる

Oh, when the saints go marching in
Oh, when the saints go marching in
Lord, how I want to be in that number
When the saints go marching in

おお 聖者達が行進して行く
おお 聖者達が行進して行く
主よ 私もあの列に加わりたい
聖者達が行進して行く




替え歌

Oh, when the truth go marching in

Oh, when the truth go marching in

Thee, how Mynow want to be in that truths

When the truth's coming up& in
9.健康な生まれ変わり 
  古いものを新しく換える新陳代謝が生まれ変わりであるが、
その際、健康的に新陳代謝することがカギとなる。
病的には新陳代謝ができないか、すぐに止まってしまうことになる。
人類にとっては、進化するか、絶滅するかの違いである。

日々の生活も生まれ変わりの新陳代謝であり、
同じ繰り返しのようで、同じ繰り返しでないような微妙に変わり、突然大きく変わるような
自然の時の流れの常に新しくなっていく姿である。

残された人生の生活において、
この日々の生活がなんとか71年間生き抜いてきた知恵を次の世代に伝えることも、
健全な生まれ変わりをする社会・人類への遺言である。

自分の心身を健康・平和・自由に保つように、生活指針をまず築く必要がある、
この生活指針こそが、これまで71年間生き抜き、築かれた知恵である。

この知恵こそが、次の世代への真の遺言書になる。

その知恵を残りの人生と生活で、まとめ上げて後世への遺言伝言としくにあたって、
「自分の心身を健康に保つように、国の健全な平和と自由を治める」
という個人と社会の新しい人間創り、社会造りをするという観点が必要になる。

国を治めるには、まず、憲法を定めることから始まる。
古今東西から学ぶことは、人の権力で国を治めることは長くは続かない。
長くつづくと、病的な苦痛を伴ってしまう。個人の命は短く、社会の命は長いからである。

自分を治めるには、自分の原動力となる「愛と知」が自然な調和状態にもっていく必要がある。
個人の愛は社会の欲である
個人の知は社会の法である。

愛は知を変え、知は愛を制御する。
欲は法を変え、法は欲を統制する

今までは、自分の生活を観察してきたが、これからは、
その観察データをもとに、
新しい知恵創りをいわば、仮定して、行い、実験観察して、自分の心身がどう変わっていくかの検証をしていきたい。
その検証をもって、
新しい知恵(自法)を定めていこう。

特に、健康な食生活の知恵を仮定、実験、検証してみよう。
それを軸にして、衣食住を総合的に、自己管理する知恵(自法)を作ってみたい

これが次の人類への遺言として、健全に生まれ変わる知恵づくりである。

この知恵も法も、
「二度と過ちは繰り返さない」
というルールを基本にしたいものである。


 
10.今ここから生まれ変わり 
  次に生まれ変わるとしたら、
今ここで赤ちゃんとして生まれ換わるとして想定した方が自然に近い

自分がこれまでやってきたことを次の自分に伝えるための準備を残りの人生でやりとげるのがいい。

自然とは空間と時間と命ある自分との対峙状態である。

存在するとは自然と自分との対峙において、認められるということである。
片方の自分が無であれば、自然も無となると演繹できる。

これから、
自然と対峙する上で、
演繹帰納して思考する際、その根本たるベースを
誰も否定しようがない事実にすることである。

それは思索する上で その言葉の概念をハッキリと、自他が確認させてから、対話することが
コミュニケーションでは基本となることと同じである。

人間としての自分の存在は空間時間をもつ自然との対峙において、
今の自分の姿だけが存在すると演繹できる。

過去の自分は無(無限)であり、未来の自分も無(無限)である故に、
現在の自分だけが存在しているといえる

自分を構成しているのは 意志・身体・心 である。

略して 意身心(いしんしん)

自然と対峙するときのその自然を意志したときに、「判る」「知る」
自然な身体を観じるのを「出来る」「楽しむ」
自然な心を受け止めるのを「解る」「幸せ」

と定義することもできる。

略して 知楽幸(ちらくこう)

まとめると
空間時間と対峙する自分を自然といい、
その自然の自分は今の自分だけが存在し、
今の自分に意身心から構成され、自然と対峙した状態の自分を知楽幸といえる。

生まれ変わる赤ちゃんから老人にいたるまでの
自分に命の炎力を与えられるような環境整備しておきたい。

生活の基本になる衣食住においては
まず飲食による健康法の原則である。

それは社会における憲法を制定するようで、
生まれ変わる自分に対するDNAであり、自法である

一日の飲食の内容と量が今の自分を健康に保てるか?
ここからがスタートであろう。

食を制するを以て
 身体を制する
その事実を以て
 心と意志をもつ命を制する


 
11.著作権・著名は権力に繋がる 
   動画編集するうえで、どうしても、画像や音楽の他人のものを使いたくなる。
自分でみな作るのではとても大変だからである。
だが、
画像・音楽・動画にしても、
著作権を主張しない作家がたくさんいる。
その数は、99%以上の無名作家であり、そうした集まりで、自由に使えるボランティア集団が必ずあり、できてくる。
自分の著作権を主張したらい、その著作権を売買して、金儲けしているのが今の経済を支えている。
だが、
そうしたことができるのは、著名人と大手企業だけである。
人間の一割が9割の経済力と同じになっている。
それはまさに
著名と金銭の権力を守り、多くの人の自由を支配している。

だが、
そうした著名人や大手企業においては、権力を守らざるをえないために、
自分自身の自由さも失ってしまう。
「奢るものは久しからず」というが、著名の権力は、一時的であり、別なものがその著名の権力にとってかわるのが
古今東西の事実である。

著名さや大手企業にこだわらない集団は自由な創造を求めて、著名人や大手の創造よりもはるかに優れてものがそこで育てられる。

こうした、著名や大手の権力に振り回され、支配されてしまうのは、
自分という存在が今の自分でしかないという真実を認めないためである。

永遠の自我が続くような幻想は、神や仏のようなものである。
神仏にはかならず名前がつくのである。いわば、著名さのよる権力支配である。

他人を支配しようとする権力者も権力組織も、それは不自然な幻想的暴力である。

自分を支配することも難しいのに、他人を支配しようとすることは難しいというよりも、無駄あがきであり、不自然、妄想である。
それは、
古今東西の事実から証明できる。


12まとめ 
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