ボランティア活動から学ぶグローバル社会と地域社会
 
プレゼン用PowerPoint
6月21日(木)12:50-14:20 
徳島大学教養教育 授業
ボランティア活動から学ぶグローバル社会と地域社会
常三島キャンパス 6-303教室
受講生20名(1年生19名、2年生1名)

1.テーマから
 
グローバル社会と地域社会とは現代社会のことで日常社会のことである
いかに現代社会を学ぶかということであり、
それをお金を出して、大学などの教育機関で学ぶのではなく、
また就職してお金を稼ぎながら学ぶのではなく、
金銭に関係なく、現代社会のお手伝いや社会活動をすることで学んでいこうということである。


お金でできることって
この世の中お金がすべてだと思われているが・・
そもそもお金だけで物事が解決できるだろうか?
大学に入って学ぶにしても、
お金だけでは入れない、勉強して試験に合格しなければ入れないのである。
お金をだせば好きな企業に就職できるというわけではない。
そう考えると
お金だけではほとんどの問題は解決できないものばかりである。
学ぶということは
なぜ学ぶのか?
現代社会を生きていくにはいろいろな問題が出てくる。
そういう一つ一つの問題を一つ一つ解決していくことが学ぶということである。
解決する考え方、技術、方法を身に着けることが学ぶということである。
金銭だけで問題解決できないものが多いなかで、
金銭に関係なく現代社会の問題を解決することを学んだ方がより技術が身に着くというものだろう。
金銭に関係なく、現代社会の問題を追求し、その解決法を探求しようというのが
このテーマである。
自己紹介
私の名は岡部康平、東京都渋谷区出身の今年10月で68歳になる。
学生さんの半世紀50年も、この現代社会を先に生き抜いた老人である。
 団子虫も弁証法で迷路(苦難)を抜け出す・・自然観察1
 

2.悪兄との闘い  
 
父は露天商、母は行商で生活をしていたが、
私が物心がつくころには近くの露天商先の物置を日借りで
訳アリ安物雑貨を仕入れして売っていた。
両親が家に帰る頃は夜11時過ぎで、兄弟妹と次男である私の4人兄弟夜を過ごしていた。
夕食は私が学校帰りに店に立ち寄って、お金をもらい、それで夕ご飯のおかずを買い、料理していた。
当初は小六の長男が1か月ばかりやっていたが、次男の小3の私が後中学操業までやっていた。
それは大して苦労ではなかったが、
問題は 長男の暴力である。
毎日のように次男の私以下、三男、小さな妹まで 殴られ、青あざが絶えなかった。
長男は両親にも手足をあげ、暴言をはき、
毎日、家庭は地獄の戦場だった。父親は気が小さく、また一切この面倒はしないし、一切国に出すことはしなかった。
毎日ヤクザな長男が親兄弟をみな暴力で支配していた。
その長男が当時人気だった極真空手を習いだし、暴力は日増しに激しくなり、殴るのは痛くなるので、ベルトで巻いたり、時には、包丁で、脅しにかかってきた。
そうなると、青あざではすまなくなり、私の鼻血はどす黒いどろりとしたもので、一気に一リットルを超えるような量が出たのを覚えている。
私の願いはとにかく空手の兄に勝つことであり、一日でも家庭が平穏に過ごせることだった。
高校に入学して、すぐに柔道部に入り、いかに凶悪な兄に勝つか、研究していった。
都立高校で特にすぐれたコーチもいないので、
自分で柔道の本を読みながら、その技を研究していた。

柔道の基本は

「押さば引け、引かば押せ」というもので、
三船十段にあっては、それが、改良され、
「押さば回れ、引かば回れ」
というように、直線的に動くのではなく、回転しながら、
押さば引きまわれ、引かば押回れ」

で、相手の力で、相手自身が倒れるようにもっていくものである。

それは基本的に受け身であり、自分からは攻撃をしない
合気道の技と精神も共通している。

自分から攻撃をしかける場合は、ボクシングのジャブのようなもので、
相手からの反撃をしかけるためのものである。
だから、
「柔よく剛を制す」というのである。
柔とは優しく受けることあり、剛とは強く攻めることである。

この柔道の技と精神は、私の一生の人間関係の基本になっている。
武道はいわば喧嘩である。究極的には相手を殺す技でもある。
そういた喧嘩の前にはかならず口論から始まるものである。

口論で、相手を制してしまえば、喧嘩にもならず、また殺し合いにもならない。

柔よく剛を制す」は口論する技術でも応用でき、

「優しく話すことは強い罵倒を制する」
ともいえる。

相手が強引に説得させようとしたら
「押さば回り込んで引け」

と、相手の強引な言葉に反発はせず、するりと外しながら、その言葉で自滅させるように仕向ける。
自分の意見を無理やり引き込もうと
「引かば回り込んで押せ」

という対応も、易しい言葉で交わせるように応用できる。

柔道を研究してから
今の歳まで実際に殴り合いの喧嘩にまではいかず、ほとんど口論ですまして、難なく生きながらえてきた。

こうした柔道の精神は人間関係の口論や喧嘩だけでなく、
国際関係の外交や戦争にも応用可能である。

 それは
「愛を語る楽器は恐怖を押し付ける武器を制す」

というものにも応用できる。


足払い
悪兄をまずやっつけたのは足払いであった。
実際に先輩から教わる前に、柔道を私は本でまず学んでいたとき、
足払いの仕方を読んでいた。
いつものうように兄が私を殴ろうと近づこうとした瞬間、
その前足が着地する瞬間を足で払った。
すると見事に、兄は転んだようにひっくり返った。
その後、クラブの強い先輩にも、うまくタイミングがあった時は
やはり見事にすっとんだ。
足払いは柔道を習わくても、熟練でなくても、
相手が攻撃しようとした瞬間に行えば、誰でも相手を倒すことができる。

その原理はこうだ。


相手が押す時に重心を前足に乗せる瞬間
引く時に重心を後ろ足に移動するとき、前足が離れる瞬間

人が歩いている時、小さな小石につまづいたり、何かにひっかかって転ぶような瞬間と同じ原理である。

相手に捕まえられたときに逃げる場合にも応用できる。
相手がつかんで攻撃することがずっと続くことはなく、必ず休む瞬間が来る。
その攻撃を休む瞬間にするりと抜け出す。

古武道の無刀とり、相撲の猫騙しなど、
相手が攻撃しようとする瞬間、その気を別にそらすことで、相手の気勢をそいでしまうのもそうである。

いわば
「攻撃する気を払え」
「殺気を払え」


ということだ。

これは自分が相手を攻撃する気配を見せないと、相手は防衛しないことにも通じる。

「攻撃する気を払え」
「殺気を払え」

この原理は相手にも、自分にも通じる柔道技である。

これは
口論でも、相手を打ち負かしてやろうとか、相手が自分をへこませばあげようとする気配を払って消すことで、
喧嘩そのものがなくなり、友好ムードになる。

これは授業では、

「教え込もうとする気配を払え」

仕事の営業では
「売り込もうとする気配を払え」

そういう攻撃的、洗脳的、権力的圧力にも対応できる柔道技である。


兄に勝つと
   一年も柔道を必死に習い、とうとう、兄の空手と私の柔道が対決する日がやってきた。
空手は間合いがあって、打つか殴るか、蹴るかの時は強いが、
相手と組んだ場合は柔道が強い、
相手の手足をすりぬけ兄を組み倒し、そのまま袈裟固めで、兄の自由をうばい抑え込んだとき、
兄は手足をバタバタしても、私を殴ることもできず、そのまましばらく抑え込んで、
「まいったか?」
「・・・・・・・」
兄はまったく無言で、弟の私から立ち去った。
それ以降、兄は二度と私を殴ることはなかったし、口論もなくなった。
しかし、私以外の弱い弟。妹、両親に対しては暴力と暴言はやむことはなかった。
それはサルの群れと同じで、
群れ(家族)のリーダーが兄から弟の私に移ったみたいだった。
そのリーダー役は両親が亡くなるまで、亡くなっても、今も続いていることになる。
 
3.ジャンクリストフ


 青空文庫より
 
 
 

 ある晩、メルキオルが夕食をしに町に出かけた時、ゴットフリートは下の広間に一人残っていたが、ルイザが二人の子供を寝かしてる間に、外に出て、数歩先の河岸に行き、そこにすわった。クリストフはひまだったのでその後について行った。そしていつものとおり、子犬のようにじゃれついて彼をいじめたあげく、ついに息を切らして、彼の足下の草の上に身を転がした。腹這(はらば)いになって顔を芝生(しばふ)に埋めた。息切れが止まると、また何か悪口を言ってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面に埋めたまま、笑いこけながらそれを大声に言ってやった。なんの返辞もなかった。その沈黙にびっくりして、彼は頭をあげ、その面白い戯言(ざれごと)をふたたび言ってやろうとした。

 

 すると彼の眼はゴットフリートの顔に出会った。その顔は、金色の(もや)の中に消えてゆく太陽の名残(なご)りの光りに照らされていた。クリストフの言葉は(のど)元につかえた。ゴットフリートは眼を半ば閉じ、口を少し開いて、ぼんやり微笑(ほほえ)んでいた。彼の痛ましい顔はなんともいえぬ誠実さを帯びていた。

クリストフは頬杖(ほおづえ)をついて彼を見守り始めた。夜になりかかっていた。ゴットフリートの顔は少しずつ消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットフリートの顔に反映してる神秘的な印象に、クリストフも巻きこまれていった。

地面は影に包まれ、空は明るかった。星が見えだしていた。河の小波(さざなみ)が岸にひたひたと音をたてていた。子供は気がぼんやりしてきた。眼にも見ないで草の小さな茎を()んでいた。蟋蟀(こおろぎ)が一匹そばで鳴いていた。彼は眠りかかるような気持[#「気持」は底本では「気待」]になった。……と突然暗い中で、ゴットフリートが歌いだした。

 

胸の中で響くような(おぼ)ろな弱い声で歌った。少し離れると聞こえないくらいの声だった。

しかしそれには心()かるる誠がこもっていた。声高に考えてるともいえるほどだった。あたかも透明な水を通してのように、その音楽を通して、彼の心の奥底まで読み取られる、ともいえるほどだった。

 

クリストフはかつてそんなふうに歌われるのを聞いたことがなかった。またかつてそんな歌を聞いたことがなかった。ゆるやかな簡単な幼稚な歌であって、重々しい寂しい多少単調な足どりで、決して急ぐことなく進んでいった――長い沈黙を伴って――それからまた行方(ゆくえ)もかまわず進みだし、夜のうちに消えていった。ごく遠くからやって来るようで、どこへ行くのかわからなかった。その朗らかさの中には惑乱が満ちていた。平和な表面の下には、長い年月の苦悶(くもん)が眠っていた。

 

クリストフはもう息もつかず、身を動かすこともできないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終ると、ゴットフリートの方へはい寄った。そして(のど)をかすらして尋ねた。
叔父(おじ)さん!……」
 ゴットフリートは答えなかった。
「叔父さん!」と子供はくり返して、彼の膝に両手と
(あご)とをのせた。
 ゴットフリートのやさしい声が言った。
「坊や……。」
「それはなんなの、叔父さん! 教えておくれよ。叔父さんが歌ったのはなんなの?」
「知らないよ。」
「なんだか言っておくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「叔父さんの歌かい。」
「おれんなもんか、馬鹿な!……古い歌だよ。」
「だれが作ったの?」
「わからないね……。」
「いつできたの?」
「わからないよ……。」
叔父(おじ)さんが小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ、おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのまたお父さんが生まれる前……。この歌はいつでもあったんだ。」
「変だね! だれもそんなことを言ってくれなかったよ。」
 彼はちょっと考えた。
「叔父さん、まだ他のを知ってるかい?」
「ああ。」
「も一つ歌ってくれない?」
「なぜも一つ歌うんだ? 一つでたくさんだよ。歌いたい時に、歌わなけりゃならない時に、歌うものだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「だって、音楽をこしらえる時には?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供は考えこんだ。よくわからなかった。でも彼は説明を求めはしなかった。なるほどそれは、音楽では、他の歌みたいに音楽ではなかった。彼は言った。
叔父(おじ)さん、叔父さんはこしらえたことがあるかい?」
「何をさ?」
「歌を。」
「歌? なあにどうしておれにできるもんか。それはこしらえられるもんじゃないよ。」
 子供はいつもの論法で言い張った。
「でも、叔父さん、一度はこしらえたに違いないよ。」
 ゴットフリートは
(がん)として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
 子供は言い進んだ。
「だって、叔父さん、
(ほか)のを、新しいのを、こしらえることはできないのかい?」
「なぜこしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、(うれ)しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人(つみびと)だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が(いや)になった時のもある。

他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。なんで他のをこしらえる必要があるもんか。」
「偉い人になるためにさ!」と子供は言った。彼は祖父の教訓とあどけない夢想とに頭が満されていた。

 ゴットフリートは穏かな笑いをちょっと見せた。クリストフは少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
 ゴットフリートは言った。
「ああおれは、おれはつまらない者さ。」
 そして子供の頭をやさしくなでながら尋ねた。
「じゃあお前は偉い人になりたいんだな。」
「そうだよ。」とクリストフは得意げに答えた。
 彼はゴットフリートからほめられることと信じていた。しかしゴットフリートはこう答え返した。
「なんのために?」
 クリストフはまごついた。考えてから言った。
「りっぱな歌をこしらえるためだよ!」
 ゴットフリートはまた笑った。そして言った。
「偉い人になるために歌をこしらえたいんだね、そして歌をこしらえるために偉い人になりたいんだね。お前は、尻尾(しっぽ)を追っかけてぐるぐる回ってる犬みたいだ。」
 クリストフはひどく(しゃく)にさわった。他の時なら、いつも嘲弄(ちょうろう)している叔父(おじ)からあべこべに嘲弄されるのに、我慢ができなかったかもしれない。そしてまた同時に、理屈で自分を困らすほどゴットフリートが利口であろうとは、かつて思いも寄らないことだった。

 

彼はやり返してやるべき議論か悪口かを考えたが、何も見当たらなかった。ゴットフリートはつづけて言った。
「おまえがもし、ここからコブレンツまでもあるほど偉大な人になったにしろ、たった一つの歌もとうていできやすまい。」
 クリストフはむっとした。
「もしこしらえたいと思ったら!……」
「思えば思うほどできないもんだ。歌をこしらえるには、あのとおりでなけりゃいけない。お
()きよ……。」
 月は、野の向うに、丸く輝いてのぼっていた。銀色の(もや)が、地面に低く、また鏡のような水の上に、漂っていた。(かえる)が語り合っていた。牧場の中には、(がま)の鳴く笛の音の旋律(メロディ)が聞こえていた。蟋蟀(こおろぎ)の鋭い顫音(トレモロ)は、星の(ひらめ)きに答えてるかと思われた。風は静かに、(はん)の木の枝を(そよ)がしていた。河の上方の丘から、(うぐいす)のか弱い歌がおりてきた。
「何を歌う必要があるのか?」とゴットフリートは長い沈黙の後にほっと息をして言った――(自分自身に向かって言ってるのかクリストフに向かって言ってるのかわからなかった)――「お前がどんなものをこしらえようと、あれらの方がいっそうりっぱに歌ってるじゃないか。」

 クリストフは幾度もそれら夜の音を聞いていた。しかしかつてこんなふうに聞いたことはなかった。ほんとうだ、何を人は歌う必要があるのか?……彼は心がやさしみと悲しみとでいっぱいになってくるのを感じた。牧場を、河を、空を、親しい星を、胸にかき抱きたかった。

 

そして彼は叔父(おじ)ゴットフリートにたいする愛情に浸された。今は皆のうちで、ゴットフリートがいちばんよく、いちばん賢く、いちばんりっぱに思われた。いかに彼を見誤っていたかを考えた。自分に見誤られたために叔父は悲しんでいると考えた。彼は後悔の念でいっぱいになった。

こう叫びたい気がした。「叔父さん、もう悲しんではいやだ! もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は叔父さんが大好きだ!」しかし彼はあえて言い得なかった。――そしていきなり、彼はゴットフリートの腕に身を投げた。しかし文句が出なかった。彼はただくり返した。「ぼくは叔父さんが大好きだ!」そして心こめてひしと抱きしめた。ゴットフリートは驚きまた感動して、「なんだ? なんだ?」とくり返し、同じく彼を抱きしめた。――それから、彼は立ち上がり、子供の手を取り、そして言った、「帰らなけりゃならない。」クリストフは叔父から理解されなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。

 

しかし二人が家に着いた時、ゴットフリートは彼に言った。「もしよかったら、また晩に、神様の音楽をききにいっしょに行こう。また(ほか)の歌も歌ってあげよう。」そしてクリストフは、感謝の念にいっぱいになって、別れの挨拶(あいさつ)をしながら彼を抱擁した時、叔父が理解してくれてることをよく見てとった。

 それ以来、二人は夕方、しばしばいっしょに散歩に出かけた。彼らは河に沿ったり野を横切ったりして、黙って歩いた。ゴットフリートはゆるやかにパイプをくゆらしていた。クリストフは少し影におびえて、彼に手を引かれていた。彼らは草の中にすわった。

しばらく沈黙の後、ゴットフリートは星や雲のことを話してくれた。土や空気や水の息吹(いぶ)き、また飛んだり()ったり跳ねたり泳いだりしてる、暗闇の中でうよめく小世界の生物の、歌や叫びや音、また雨や天気の前兆、また夜の交響曲(シンフォニー)の無数の楽器、それらのものを一々聞き分けることを教えてくれた。

時とすると、悲しい(ふし)や楽しい節を歌ってくれた。しかしそれはいつも同じ種類のものであった。クリストフはそれをきいていつも同じ切なさを感じた。ゴットフリートは決して一晩に一つの歌きり歌わなかった。頼まれても快く歌わないことを、クリストフは知っていた。歌いたい時自然に出てくるのでなければならなかった。黙って長い間待っていなければならないことが多かった。そして「もう今晩は歌わないんだろう……」とクリストフが考えてる時に、ゴットフリートは歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットフリートが確かに歌ってくれそうもない時、クリストフは自作の小曲を一つ彼に示そうと思いついた。作るのにたいへん骨折ったものであり、得意になってるものであった。自分がいかに芸術家であるかを見せつけたかった。ゴットフリートは静かに耳を傾けた。それから言った。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 クリストフは面目を失って、答うべき言葉も見出さなかった。ゴットフリートは憐れむように言った。
「どうしてそんなものをこしらえたんだい。いかにもまずい。だれもそんなものをこしらえろとは言わなかったろうにね。」
 クリストフは憤りのあまり真赤になって言い逆った。
「お
祖父(じい)さんはぼくの音楽をたいへんいいと思ってるよ。」と彼は叫んだ。
「ああ!」とゴットフリートは平気で言った、「そりゃ道理(もっとも)に違いない。あの人はたいへん学者だ。音楽に通じてる。ところがおれは音楽をよく知らないんだ。」
 そしてちょっと間をおいて言った。
「だがおれは、たいへんまずいと思う。」
 彼は穏かにクリストフを眺め、その
不機嫌(ふきげん)な顔を見、微笑(ほほえ)んで言った。
(ほか)にもこしらえた(ふし)があるかい。今のより他のものの方がおれには気に入るかもしれない。」
 クリストフは他の節が最初のものの印象を実際消してくれるかもしれないと考えた。そしてあるたけ歌った。ゴットフリートはなんとも言わなかった。彼はおしまいになるのを待っていた。それから、頭を振って、深い自信ある調子で言った。
「なおまずい。」
 クリストフは
(くちびる)をくいしめた。(あご)が震えていた。泣き出したくなっていた。ゴットフリートは自分でもまごついてるように言い張った。
「実にまずい!」
 クリストフは涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットフリートは正直な眼付で彼を眺めた。
「どうしてって?……おれにはわからない……お待ちよ……実際まずい……第一、馬鹿げてるから……そうだ、そのとおりだ……馬鹿げてる、なんの意味もなさない……そこだ。それを書いた時、お前は何もいうべきことをもっていなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」とクリストフは悲しい声で言った。「美しい楽曲を書きたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になるために、人からほめられたいために、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は
(うそ)をついた、それで罰を受けたんだ……そこだ! 

音楽では、高慢になって嘘をつけば、いつでも罰を受ける。音楽は謙遜(けんそん)で誠実であることを望む。もしそうでなかったら、音楽はなんだろう? 神様にたいする不信だ、冒涜(ぼうとく)だ、正直な真実なことをいうために美しい歌をわれわれに贈ってくだすった神様にたいしてね。」
 彼は子供の悲しみに気がついて、抱擁してやろうとした。しかしクリストフは怒って横を向いた。そしていく日も不機嫌(ふきげん)な顔を見せた。彼はゴットフリートを憎んでいた。――しかし、「あいつは馬鹿だ、何を知るもんか! 

ずっと賢いお祖父(じい)さんが、僕の音楽を素敵だと言ってるんだ」といくらみずからくり返しても甲斐(かい)がなかった。――心の底では、叔父の方が道理だと彼は知っていた。そしてゴットフリートの言葉は彼のうちに刻み込まれていた。彼は嘘をついたのが恥ずかしかった。

 それで、彼はしつこく恨みを含んでいたものの、音楽を書く時には、今やいつでも叔父のことを考えていた。そしてしばしば、ゴットフリートにどう思われるだろうかと考えると恥ずかしくなって、書いてしまったものを引裂くこともあった。そういう気持を押しきって、全然誠実ではないとわかってるある節を書く時には、注意深く叔父に隠していた。彼は叔父の判断をびくびくしていた。そしてゴットフリートが、「さほどまずくはない……気に入った……」と、ただそれだけ楽曲の一つについて言ってくれると、彼は(うれ)しくてたまらなかった。
 また時には、意趣返しに、大音楽家の曲調を自分のだと偽って、たちの悪い悪戯(いたずら)をやることもあった。そしてゴットフリートがたまたまそれをけなすと、彼は小躍(こおど)りして喜んだ。

しかしゴットフリートはまごつかなかった。クリストフが手をたたいてまわりを喜んではね回るのを見ながら、彼は人のよさそうに笑っていた。そしていつも例の持論に立ちもどった。「それはよく書いてあるかもしれない、しかしなんの意味ももってはいない。」――かつて彼は家で催される小演奏会に臨席するのを好まなかった。楽曲がいかほどりっぱであろうと、彼は欠伸(あくび)をやりだして、退屈でぼんやりしたふうをしていた。やがて辛抱できないで、こっそり逃げ出した。彼はいつも言っていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、みんな音楽じゃない。家の中の音楽は、室内の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるのだ、神様のさわやかな貴い空気を少しお前が呼吸する時にね。」


日々小説『魔からの脱出』に自伝小説
人生が変わった瞬間

上記のロマンローランの小説 第一巻曙の 幼き作曲家ジャンクリストフと行商人叔父のゴッドフリートとの河原でも場面が、その後の私の一生を変えてしまった。

これは 中学三年生の国語の教科書に出ていた記述である。
当時すぐに全13巻を買い求め、受験勉強しながら、読みふけった。

衝撃的な一問は ゴッドフリートが幼きジャンクリストフに問いかける内容である。


「なぜ(歌を)こしらえるんだ? もうどんなんでもあるんだ。悲しい時のもあれば、(うれ)しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分が賤しい罪人(つみびと)だったから、虫けらみたいなつまらない者だったからといって、自分の身が(いや)になった時のもある。

他人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなったときのもある。天気がいいからといって、そしていつも親切で笑いかけてくださるような神様の大空が見えるからといって、心が楽しくなった時のもある。……どんなんでも、どんなんでもあるんだよ。
なんで他の(歌)をこしらえる必要があるもんか。」

「なぜ歌を作る必要があるのか?」
その問いは
当時jの中学三年生の私にとって、
受験戦争における事件勉強地獄に苛む時期だったせいか、

「なぜ勉強する必要があるのか?」

という問いに聞こえた。

そして、
受験戦争に勝ち、トップの都立高校には入学したものの、
その疑問は入学当初から あり、
それは
学校の授業を否定する行動へと発展していった。

高校二年生になると、
その「なぜ勉強するのか?」
という問いは

「なんのために生きるのか?」

という、人生そのものを否定した疑問へと大きく膨らみ

その答えを探しに、神田の古本屋街を歩き回った。

そこで、三浦関造の 総合ヨガを知り、そこに答えを見つけた。
人生の目的が「神のようになる」「仏のように悟る」であり、
それに至る道も書かれていた。


それは瞑想して悟る道であった。その具体的な方法は彼の著「沈黙の書」で、ヨガスートラを訳したものであった。
それは呼吸法を重視した瞑想法であったが、
その瞑想をしただけでは、とても世の中のすべてを悟ることは到底無理だと思え、
自分なりに、思索して、なんとか悟りたいと願った。

その思索の根本問題である。
有る無いの有無を超越した世界を悟りたいとその思索をめぐらせると、
言葉そのものが持つ、論理性さえも否定せざるをえなくなってしまい、
論理思考が止まらなくなってしまい、いわば、迷宮の迷いに入り込み、
頭の中の意識がグルグル回転しつづけてしまった。

それはまさに、「くるくるパー」の状態になり、「狂人化」してしまった。

自分で自分の行動を制すことができなく、ただ浮かぶ妄想に怒鳴り声をあげるだけになった。
そして、やたら狂暴的になり、周囲の壁も壊しだしたし、モノを投げたりしだしたのである。

しかも、自分が求める神への思いは、そのまま自分がその神になったような妄想で、語り始めたり、他を威圧するようにもなっていった。

だが、そんな神のような奇跡も起こせず、予言も当たらず、そんな妄想と現実とのギャップに混乱し、
私はただ暴れるだけ暴れて 疲れて倒れるが、眠ることもできず、

妄想ばかりではなく、幻聴 幻覚 まで行き始め、まずます狂乱してしまい、
母が警察と病院に電話して、私は取り押さえられ、麻酔銃のような注射をされて、意識を失ってしまった。
気が付くと

私は独房のような鉄格子に洋式トイレとベットだけあるところに監禁されていた。
それに憤り、投げられるものはトイレットペーパーだけであり、それが独房全体に散らかりだした。
回りの独房は私ほどうるさくはないが、やはり奇声をあげていた。

そこは、都立の松沢病院だった。


これほど綺麗ではなく、はげ落ちたコンクリート壁に囲まれた感じである。
ベットではなく、単に堅いマットレスがあっただけで、
50センチ四方の鉄格子付き小窓があるだけだった。
そこにある風景はたくさんの独房の中庭のようなコンクルートだけの空間と少しの太陽の光だけだった。
むき出しの洋式トイレで、大小便をするのだが、壁がないので、むき出しなので
プライベート空間は一切なかった。
犯罪者と精神病患者とは同じ扱いを受けていると初めてそこで気が付いた。

その独房では無理やり薬を飲まされるのだが、
それが毒として自分を殺そうとしているという妄想にとりつかれたため、暴れると、やはり麻酔銃のような注射をされて、意識を失ってしまう。

ある時、院長回診のようなに取り巻きをつれてきた、院長どなった。

「俺は病人じゃあない。一体何という病気だというのだ!」
「神経衰弱」
「え、神経衰弱? 」
そこから、自問していった。
(おれはよくいわえるノイローゼという病気なんだ。そういえば、ノイローゼと思われる人間と似たような行動を俺はとっている。
私を監禁するのは悪魔ではなく、俺の病気を治そうとしていたのか?
思い返せば、あの薬を飲んでも死ななかった。病気を治す薬かもしれない)

自分が神経衰弱という病気であることを自覚して以来、私はその病気ととりくむ方向に行きだした。

薬も、きちんと飲むようにし、
自分の奇声の内容も、また、周りの奇声の内容も、チェックしていった。
そこに共通点をみつけた。

「自分は神である。神の化身である。」

つまり、当人が強く求めていた神仏になったと思い込んで行動する狂人である。

と思われたが、その自分が神であるという妄想からはそう簡単には抜け出せないでいた。

二週間もたっただろうか?

おとなしくなったせいか、独房から、4人部屋の病室と、その鍵がかからない大病棟にうつされた。
そのさい、
独房から外に出られ、美味しい空気を吸い、その風を感じ、太陽の光を浴びる快さを感じた、
その際、
ひげも髪の毛もボウボウだったので、出張床屋さんの女性がきていた。
自然の息吹と光ですっかり気分もよくなり、久しぶりの風呂に入ったような床屋に、
やっと地獄の戦いに休息できたような笑顔をして眠ったような姿らしく、
その女性が私をみて涙を流していたのを不思議そうに眺めたのを覚えている。

そこから、
自分の姿を客観的にとらえる想像力がついてきた。

自分の意識を自分の頭の右上天上を視点として自分の行動と心情を観察する癖をつけていった。
それは自分を第三者として判断する能力を磨くようなものである。
私が狂人になっても、そのときの行動と心情を覚えているのは、この客観的意識があったからである。

大部屋のような大病棟に入ると、
みな精神病患者なので、
妄想・幻聴・幻覚の持ち主であるが、人それぞれによって、それらのどれが特徴的かどうかが理解できる。

また、どんな患者でも、客観的意識はもっており、自分も、他人も、比べて、その人が特有な奇行かどうかも判断できるが、問題なのは、判断はできても、自分で自分の奇行はセーブできないことである。

それは その妄想・幻聴・幻覚が本当であるとつい思い込んでしまう行為に走ってしまうことである。

自分が主人公となった、ドラマや映画が本当だと信じ込んでしまって、生きたり、死んだり、救ったり、殺したりするようなものである。

病気当時、自分が神のように思い込んでいたため、他人を殺すことも、自分を殺すことも、なんとも思わないような気迫があった。自分が生死を超越して永遠に生きているという妄想があったため、人の死を少しも恐れることは感じなかったためである。

私の視線には「悪事は許さぬ、悪人は即殺すぞ」という気迫が常にあった。
その善悪の判断は、自分が善である神として、他人の悪を悪魔としてしまうので、自分がその人を悪魔の手先と判断すると、即殺してしまう意識である。

そのためか、私に睨められると、どんな強面のものでも、ビビるほどだったのを、客観的意識が記憶している。

こうした自分を神として驕りの強い妄想を持つ行為が、ひとたび権力を持つと、それが恐怖政治やテロ行為を平気で楽しむようにやってしまうのが、よく理解できるのである。


大病棟になって、見舞いに母や高校の親友もやってきた。

母は私を赤ん坊のように、粉ミルクを飲むように勧めた。
その栄養がいいせいか、あっという間に10キロ太ってしまった。
親は子供がいくつになっても赤ん坊のころのイメージと同じなのかもしれない。
実際、自分も父親となっていて、娘たちをみても、同じような感覚になってもおかしくないと思える。

見舞いに来てくれた親友の1人、K医師はこの徳島大での授業ができるきっかけにもなっており、半世紀たった今も親友として付き合っている。

本当に人が苦しいときに、出会う友人は一生涯の友人になるようである。

苦しみというものは、人の心を密接に結びつける要素かもしれない。
戦友とかいうのは切っても切れない関係に一生涯なるのもそうではないだろうか。

数か月の間
病棟内で、内職のような作業をしたり、患者どうしで卓球したりする中で、だんだん社会的日常生活に慣れてきた。

何よりも、自分が解放に向かったのは
庭に出て 樹木の植え替え、花の世話、庭の手入れをする作業である。
独房からの太陽と風に癒されたとき、また、木々の緑と、その生命に触れる時、
私が一番癒された経験は今の畑道楽にもつながっている。

高校二年三年はほとんど学校にいかなかったが、高校三年には病院から学校へ、さらに自宅から通院へとだんだん切り替わっていった。

そして、担当医にきつく言われた。

「必ず薬だけは毎食後飲んでください。」
「いつまで?」
「一生涯です」
「どうして?」
「この病気は一生涯治ることはありませんから」

当初は守っていたが、
高校卒業後
アルバイトをしたが、薬の影響で、すぐに眠くなり、眠りながら仕事をするようになると、
会社から首になってしまった。
薬を飲みながらでは仕事はできないことがわかった。

そこで、薬を飲まないで、病気がでないようにするような自己チェックをすることにした。

薬を飲むと、手足の震えがひどくなる。
そのため、手足の震えがなくなるかどうか、薬の副作用がないように薬の量を減らす。
毎朝、鏡の中の自分の眼をみて、
異様なキラメキがあるかどうか?
もし、異様な目つきがでたら、薬をのみ、
正常な目つきだったら、薬を飲まない。

夜眠れたら、薬は飲まない。
夜眠れず、妄想にふけるようだったら、薬を飲む。

つまり、
ノイローゼになる前兆が見えたときだけ、薬を服用する。
そして、その副作用である、眠気と手足の震えを出さないようにした。

医者からは膨大な薬の量をもらうが、服用が少なくして、
一年後には、まったく服用しなくても、ノイローゼの前兆がでなくなっていった。

最も、自分をノイローゼから解放させていったのは、
病気になったときの、信仰・信念や思想を間違いとし、
妄想の原因となった、疑問点

「なぜ勉強するのか?」

「なぜ生きるのか?」

その疑問を保留して、考えることを封印した。

そして、ヨガの考えである
「神になる」「悟る」という信仰と探求も、修行も、みな封印した。

普通に社会生活ができるような考えや行動だけをするようにした。

40歳までの22年間、神仏の思索を封印し、
「なんのために生きるのか?」といく疑問を保留封印したのである。



4.封印を解く日
 
40歳のころ、ゴリラ便という便利屋件ゴリラの恰好をしてプレゼントを届ける仕事をしていた。
その仕事をする仲間たちが毎日ゴロゴロしていた。
そこに寝泊まりしていたOさんが読み終わったのか、「理性のゆらぎ」という本を置きっぱなしにしていた。
つい、その内容をさらりと読んでしまった。
科学者である青山圭秀という著で、インドのサイババについて書いてあった。
サイババの言葉の中で、一番ひきつけたのが、

「神様より家族を大事にしなさい」

この言葉から、22年間封印した「神の追求」を解放することを決めた。
(どうやら サイババは本物かもしれぬ?)

ほとんどの宗教は まず神、まず仏 であり、それに従うことから始まる。
そして、生きる目的もまた、神であり、仏である。
私が精神の病になったのは、家族よりも神様を優先したからである。
それは普通の社会生活よりも信仰生活を優先したためだからであった。
22年間で、そう確信できていた。

サイババの「神より家族を優先せよ」という言葉は長い事、神とは何か、生きるとは何か その答えを得られるかもしれないと期待した。
そしてすぐに
インドのサイババに会いにいった。
そこは、まるで紀元前500年前のシャカが数万人の信徒に囲まれ、教えを説く同じ姿があった。

日本人グループもあり、そこでは、サイババと直接面会を求めるグループが各国にあった。
だが、参加者が二万人のうち、外国人グループは100か国として、その1つが選ばれるグループの確率は1%くらいである。

私は二回目のインドのサイババアシュラムに日本人グループの1人として選ばれ、運よく、金の指輪をもらった。それ以外の人はビブーティー(聖灰)といって、それは神聖化された牛の糞を乾燥させた粉をくれる。
サイババから直接もらえるのは、
手から、物質化するように、そのビブーティーを出して わずかにくれる。
私にくれた金の指輪も、手をくるりと回して、空中から取り出すかのようにして、もらったものである。
このようなマジックのようなプレゼントを与えるので、
超能力者として世界的に有名になっていた。
私はそうした奇跡的なプレゼントをくれるサイババよりも、その教えの方に興味があった。
古今東西、宗教の争いは絶えない。
そうして宗教の争いがなく、ともに神や仏を共有できる柔和な宗教にあこがれていた。
そうした希望にあえるように、サイババはこう力説した。

「世界の宗教は一つ、それは愛の宗教」

カーストはただ1つ、それは人類というカースト。宗教はただ1つ、それは愛という宗教。言語はただ1つ、それは心という言語。神はただ1つ、そして、神は遍在


私はもっとサイババを研究しようと
「サイフォーラム」というホームページを立ち上げた。

そこで、うちに集まる便利屋ゴリラ便の仲間の英語に達者な宇野梵悦に、サイババの講話を翻訳して、掲載していた。
また、毎日のサイババの言葉を抜粋して、サンスクリットと英語を合わせて、翻訳してもらった小川茂樹の二人ととにも、私が編集アップして日々更新していた。

その後、何度もインドを訪問しながら、その活動は10年あまり続いた。

そして、宇野梵悦のサイババの講話の翻訳の本は

「神の詩」 青山圭秀監修 宇野梵悦訳 で 中央アート社から出版されるまでにいたった。


しかし、
2002年に
「裸のサイババ」 パンダ笛吹著 が発売され、それは

次の内容だった。

サイババによる児童・青年への性的虐待や臓器売買疑惑、そして物質化現象のトリック疑惑といったさまざまな暗部を、虐待を受けた本人や家族、サイババ学校の元校長や元音楽教師、現役の専属ビデオカメラマンなどへのインタビューをもとに告発する。


この本は いくつかの英語の告発分を翻訳して、まとめあげたもので、サイババ信者にとって、大きな衝撃を与えた。
いわば、今まで神様のように崇めた人のスキャンダル、特に、青年児童の性的虐待の真偽に大論争がおきた。
私も、サイファーラムで、その掲示板での論争に、まきこまれた。

私自身、その真偽を確かめるために、
日本で、実際にサイババから性的被害を受けたかどうかを取材していった。
その結果、サイババには、海外の10代の好青年に興味があり、その局部を愛撫すること、その代わりに、指輪などのプレゼントを与えていたことをつきとめた。

手から、聖灰を出すトリックは、実際の灰を水でまるめて、粒にして、乾燥させ、それを指の間に隠し、
それをこすることを実験して、証明した。

そして、
インドのサイババのダルシャン(信徒の中を歩き回り、信徒からの手紙を受け取る)の際、彼が指からネックレスを出す前に、指の間から、ネックレスのチェーンが垂れているのを目撃した。

マジックの種が証明されたと実感した。

2003年には、サイババの宗教思想を根本から洗い直し、それが真実に耐えうるものかどうか、徹底的に自分の中で議論した。その作業は1年を通じて行われた。

と同時に、
愛を根本とするサイババ宗教から脱して、
日本の根本的精神である感謝の心を土台にした
ありがとうおじさんの宗教に没頭し、彼の宗教を学ぶべく、
「ありがとう広場」というホームページを立ち上げ、彼の講話をアップしていった。
実際に、ありがとうおじさんに会って話を聞いたのは一回だけである。
行かなくても、毎回の話はテープで送られてくるので
それを文字化して、アップするだけで学ぶことができた。
その作業は膨大なので、ネットでテープ起こしを募集するとやってくれる人がいてくれて、
毎回の講話をアップすることが可能にまでなった。

ただ、
ありがとうおじさんの
「ありがとうございます」というラベルシールをどこでも貼り付けるだけで、それが奇跡的な力をもってその場を浄化するような行為だけは納得できなかった。

その「ありがとうございますシール」を特に、トイレの便器の前に 公衆トイレに張るのをボランティアグループがすることで、それが異様なありがとう教の布教活動のようで、気持ち悪いもののように思えた。
その気持ち悪さの行為は世間でも騒がれ、
ありがとう教団の迷惑行為として、ネットでも叩かれた。

でも、
「ありがとう」という「感謝の心」は、いろいろな問題が起こった場合に、
逆転の発想ができる知恵としても大きな効果をもたらすことができる。
たとえば、
否定的な嫌いなことを拒否することでなく、
「感謝の心」で、その嫌いなことを素直に「ありがたく受け入れ」
肯定的ポジティブに考えると、
嫌だったことを積極的にやり、いつしか好きになっていくようなことができてきたりする。

彼のありがとうの発想力は、

大難を小難にできる予防策でもある。

だが、その行き過ぎた感謝の心は、

ありがた迷惑になってしまい、よけいなお節介となり、

小難が大難になって、逆効果になる。

まさに、
過ぎたるは及ばざるがごとしである。

2006年ごろ、
まさかと思う事件がおきた。

ありがとうおじさんが信徒複数とセックスまでしてしまったことだ。
それから、
彼を慕うボランッティアの1人が 電ノコかなんかで指をきった際、
ありがとうおじさんが、
「赤チンでもつけて、ありがとうございますを唱えておけば神様が治してくれるさ」
と、言い、その通りにした結果、
その指が化膿してしまい、切断?まで追い込まれたという事件も報告されてきた。

どんな不道徳なことでも、ありがたく行えば善い行為に代わる
というような行き過ぎた感謝の心は、善用ではなく、悪用であり、エゴでもある。

感謝の心を神の奇跡力、また治癒力にしてしまうのも
やはり行き過ぎた行為であり、治るものも治らなくしてしまう結果になる。

それも、私はありがとう広場の主催者であるため、それが本当かどうかを調査した。

ボランティア活動している人から、直接話をきいて、
どうやら、それが噂ではなく、本当のことだという確信ができた。
そのため
(おい、またかよ、サイババのスキャンダル そして、今度はすぐに ありがとうおじさんのスキャンダルかよ!)

敬愛していた人のスキャンダルは 敬愛していた人の宗教も思想も、不完全であり、修正または廃棄せざるをえなくなる。

正直当時こんな風になげいていた

(神は愛でもダメ、感謝でもダメかあ!! いったい神って何だよ?)

またまた
永い永い真実への旅路を歩かなければならないと思うと、
いままでやってきたことの苦労がみな水の泡にきしてしまうことの繰り返しの数十年になる。

そして、
ありがとうおじさんの講話はすべて廃棄し、
ありがとう広場も、ありがとう教批判のホームページとして、ひっそりと残した。

この授業の予習で、
今ありがとうおじさんはどうしているのかをネットで調べていたら、
なんと、今年の2018年2月4日に護摩焚きの時。76歳で死去していることが解った。
なんか
ドン・キホーテのように、
最後の最後まで、「ありがとうございます」の神の言霊の奇跡力を信じとおした生涯と感じる。
彼は本当に幸せであっただろうし、それが彼の社会的役割だったような気がする。


5.行き着いた先
 
私は封印を解いて、神仏を求め、20年の年月が過ぎた。
そして、その神仏を私は捨てて、自然の道を歩きだした。

「なぜ学ぶのか?」
[何のために生きるのか?」

その問いを発し、狂乱し、封印し、開封し、求めた結果・・・・

その答えは

「なぜ学ぶのか?」という問いそのものに問題と答えがある。
「一生涯学び続けることが生きるということ!」
「なんのために生きるのか?」という問いそのものに問題と答えがある。
「生きる目的も、生きるためであり、生きる原因も生きているためである!」

それは

Going My way!

Leave like one-self!

あなたはあなたらしく
彼も彼らしく、彼女の彼女らしく
私も私らしく
生きるということ
それが自然な生き方であるということ

学ぶのは学ぶそのものが目的であり、
生きるのは生きることそれ自身が目的である

自然は原因と目的を同時に合わせ持っている

人が学び、愛し、感謝することは
それが生きるということだからだ
そして、その生き方は
自然な生き方死に方の生涯である

私は余生の仕事を

「健康であること」を目的にした。
具体的には一生涯ダイエットに挑戦し続けることである。
ダイエットの意味は痩せることではなく、健康であることだからだ。

そして、
高校の親友の大阪のK医師が徳島に古民家を買い、
そこで
健康と自然の会を徳島大のO教授と作った。
その古民家を知足庵と命名した。

私はその「健康と自然の会」に余生の一番の楽しみとした。

そのおかげで、徳島大の社会人授業にも参加して、学べている。

「健康であるということ」
それは
「自然な生き方であるということ」
でもある。

ダイエットは

生きるための最小限の食事と、最小限の運動を保つことで、健康になることだ。

ダイエットして痩せ、またリバウンドして肥り、
またダイエットして痩せ、またまたリバウンドしながら、
生涯に渡って
安定的に、
健康で自然な生き方ができるように学んでいく、

答えなんかない
その答えをただ求め続けることが
学ぶということであり、
また教えるということでもあり
命の炎をバトンすることであり、
生きる力を共有することでもある。

具体的な活動としては

最小限必要な食物を生産、売買、調理、食べ、運動、消化していく

その道楽のような畑仕事を通じて、その自然観察を報告を
同じ目的をもった人と共有していくことである。



古代麦の穂の花が咲き、蕎麦の花も満開である。2018年5月26日
蕎麦の草の下には陸稲の芽が数センチ出て、蕎麦が枯れた時に、大きく育つことを夢見ている。
古代麦も、6月末には実って枯れ始める。
麦の間には、陸稲と蕎麦の種を4月の始めに播いており、
それが麦が枯れるころに育ち始めることを期待しているが、
はたして、どうなるかは、まだ試験中である。
こうした麦と稲の二毛作をもう7年間も試行錯誤している。
その自然な麦と稲の交代ができるかどうか・
その自然農法の研究もまた生涯続けていくつもりである。
向こうの黄色い荒地はやっと8年目にして、
ホームセンターでかった一袋の野沢菜を育て、その種を荒地に播いていった結果、
そこが野沢菜の花が咲きおこった年の春であり、それが枯れて、種を多くつけたので、
その種を他の雑草地にまいて、広げるとともに、野沢菜と交代して何が育つかをまた試験している
今のところ、大豆と小豆と陸稲を撒いているが・・どうなることか?
また、野沢菜のまた多く秋冬に芽生えてくるかどうか?
それまた挑戦である。
そうした
けして終わることなき挑戦もまた
生きるといいうことなんだろうと思う。



6.お金を得るということ
 

放浪の末、大学に入った

私が初めてお金を得たのは高校卒業後、アルバイトをしたときだ。
自宅近くで働けるところなら、どんな内容でもよかった。
最初はガス部品の製作工場、段ボール作る工場
でも、
どうせ仕事をするなら興味ある分野だと思い、
本が好きだったので、本を卸す会社での梱包作業
でも、
ノイローゼ治療の薬の副作用のため、眠りながら仕事をするため
首になるので、薬を辞めて、眠くならず、症状も悪化しなくなるまで休んでいた。

家にいると、兄の家庭暴力に嫌気がさし、
家出をして、自由に平和に行きたかったため、
少しのお金だったが、とにかく旅に出てしまった。
いわば日本の放浪生活である。
旅先で知り合う人のところに泊めてもらい、
また、その人のアルバイトさきで、働かせてもらって
なんとか旅を続ける資金を続けていた。
親に頼めば、生活費も、旅の資金も出してくれるだろうけれど、
自立して生活し、自由に生きたいので、自分でアルバイトをして、
お金を得、それを生活と旅の趣味に使った。
仕事はお金をもらえて、そのお金で生活費と旅費が出てばなんでもよかった。

ちょうど、万国博覧会が開催されていて、大阪に立ち寄った際、物珍し気に見に行った。
試しに、ドイツの土産品売り場に、「働かせていただけませんか?」
と、話したところ、OKをもらい、旅先なので、その店の売り場の中で、
ビーチスタンドを貸してもらい、そこで寝泊まりしてもよいことになった。

出入り自由のカードを使って、衣服を買いそろえ、その店でドイツ土産の売り子になった。
月8万円のアルバイト料を貰った。閉幕まであと15日というときに、
一日一万円で15日追加して働かないかということで、承諾した。
仕事はなんと
外のワゴンセールである。
それはアフリカ館の前でアフリカの工芸品を売る。
オーナーなドイツ人なのに、アフリカ土産とは??
値段は私が自由にまけてもいいということで、
両親が商売人しかも露天商人の出身なので、それは親子の才能があるのか
他の外国人のワゴンセールよりも、圧倒的に私の方が売り上げがよかった。
そのコツは外国人に化けることである。
日本語が話せず、夏の日差し焼けで黒かったので、東南アジア人として振る舞った。
日本人だと、お客はつまらないので、外国人の売り子との会話を楽しみながら買うというのが
わかったからだ。
これは父親の商法と同じで、いえば、映画のフウテンの寅さんの売り口上で、モノを売るのではなく、
買う楽しさを売るのである。
ただ、いらしゃいませ いかがですかの連呼ではダメだというのもそこで体験した。

私はずっと家出したように旅をしていた。
自分の滞在先は親友のIさんだけに伝えていたが、そこから、親に連絡がいったらしく、
突然、ドイツの土産売り場に両親がそろって現れたときには、びっくり仰天した。
なんと、二人とも飛行機を始めてのり、東京から大阪に来たというのだ。
両親は旅などしたことがなく、まして、子供たちと一緒に旅など一度もしたことがない。
そんな両親なので、大阪に来ても、旅館を予約していなかった。
それに、目的は万博を観るのではなく、私に会いにくるだけの目的だったこともわかった。
そこで、京都の古ぼけた旅館をなんとか探して、両親を世話し、私は大阪の万博に戻った。
これほど、親が私を心配しているのか、また頼りにしているのか、痛いほどわかった日でもあった。
万博終了後、
また、旅に出るのだが、一つ大きな問題が起きた。
同じ歳くらいの家出人の旅人が金がないのに、私を兄貴分としてついてきた。
私は23万という大金をもっている。
だが、そんな勝手に弟分としての旅費とか食費を出すのが嫌だったが、
くっついて離れそうにない。
九州の佐世保で、船員の募集をしり、二人で働こうとそこに向かった。
汽車賃は私は切符一枚買い、自称弟分は入場券だけを買わせ、
佐世保手前の駅で、途中下車を私の切符で行い、そこでまた一駅分の切符を買わせた。
つまり、彼は入場券二枚で、私の正規料金と併せればどこでも行けるというアイデアを考え、
見事にやってのけた。
船員になる面接があり、そこで、二人とも一度親元にかえり、その承諾を得てからまた面接にくるように言われた。
そのため、
私は東京へ、彼は埼玉へ 私は正規の汽車賃で、彼は入場券と東京埼玉の切符代だけで親元に帰らせた。
とにかく、やっかいものの弟分から逃げ出すことができた。
家に帰ってみると、
そこは、私がいないとどうにもならないほど殺伐としており、横暴な兄だけが支配している。
兄は弟の私だけには勝てないので、けして暴力をしかけることはないので、両親も、弟妹も私頼みの平安だというのが嫌がおうにも解った。

九州への船員になることをやめ、自宅から働きに出ることを選んだ。
ただ、運転免許が欲しかったので、働きながら免許がとれるアイデアがうかんだ。
府中の教習所の整備士になることにした。
その仕事は実におもしろかった。仲間も愉快で、一緒に尺八作りをして楽しんだりしていた。
友人がみな大学にいったが、私は高校三年間ほとんど勉強もしていないし、出席もしていないで、校長の恩情で卒業になっただけである。
友人のほとんどが大学に行っている。
大学に行く気も、その受験勉強なんか、さらさらにしたくないが、
ただ試しに、大学受験を経験してみたかった。
入学金が安く、試験が易しく、かつ 勉強したい西洋哲学科があるのが大正大学一校だけだった。
とにかく、遊び心で、受けてみたら、
何と馬鹿みたいに易しい試験だったが、中学程度の頭だったので、解るとこだけさっさと書き、早めに提出し、解らないことは適当に○×した。
まあ、30点でも取れればいいかなと、受験経験だけできただけで満足した。
だが、思いもかけず合格した。
その理由は半世紀後の高校のクラス会の担任に確認したが、内申書をうまく担任が書いてくれたことだった。
大学に行く気がないし、整備士の仕事はまだ3か月で楽しいので、迷いに迷った。
アルバイトで稼いだ大金も大学入学金と授業料は十分ある。

結局の決め手は
「大学経験は今できるが、整備士はその後でもできる」

今自分ができることのチャンスで、大学経験を決めた。

仕事は金が得られればなんでもよく、興味あることにいくらかでも近ければそれでよかった。
その仕事そのものをしたいとか、その仕事に一生をかけるというものはさらさらになかった。

仕事やお金は
自分がしたいこと、(その当時は生活と哲学と旅だった)のための道具のようなものだった。


7.大学を中退する

家に兄がいることは嫌だったこともあり、自立して生活したいこともあり、
また、自然の中で生活したいこともあり、埼玉の飯能のアパートを借り、
近くの牛乳屋さんの配達のアルバイトをしながら大学に通った。

その時のお金を得るということはやりたいことをしたいためでもあり、生活また学費のためでもあった。
大学に入って西洋哲学を学びたかったのだが、
1年の時は一般教養と高校生みたいなことをやるし、
哲学の授業はほとんど語学のドイツ語またギリシャ語から学んでいく。
東洋哲学の方も顔を出していたが、そこもサンスクリット語から学んでいくという
それもまた遠回りであり、肝心の哲学を学び、哲学をするという時間がない。
大正大学は浄土宗と浄土真宗の坊さんの卵が集まるところだが、
そういった坊さんの修行も、仏教を学ぶというより、音楽の授業のように
お経の唱え方を学ぶのである。
当時学園闘争の時代でもあり、学生と学校側との争いもあった。
革マル派とか・・いう学生もいたが、彼らがその基本となっているマルクスの資本論を読んだとは思えないで、ただ
大学生活のうっぷん晴らしとか、体制に対しての反抗心だけのためで、
そこに何の理論も、精神もなく、
また、大学の授業をボイコットする理由もよく解らない。
西洋哲学学会も大学で開かれ、私もその手伝いをしたが、
そこで、マルクスを論じることはなく、マルクスは経済論であって、哲学の分野ではない。
司会を勤めていたのは、
日本文化史で著名な梅原猛であったが、彼が哲学に関する著作はなく、日本の古代史とか文化の著書ばかりだったからだ。
その学会の主要な講義は論理学であり、数学や科学のなにやら記号を使ったもので、ちっともおもしろくなく、
やはり、本来の哲学からはかなりずれていたような気がしていた。
哲学を学びに、また哲学をしに大学に入ったのに、
それが語学の勉強と基礎知識だけで終わってしまう予感もし、
そうした語学や基礎知識を学んでも、とくに、哲学科なんかで卒業しても、
実際の仕事に生かす知識も技術もなにもえることがなく、ほとんど無意味な大学講義と思われた。
一年末にはテストがあり、それで単位をとるのだが、そのテストは高校時代の「テスト拒否症」があり、
その勉強もできず、そのテストにもでられないというような テストという意識をしただけで、体が硬直して、行動できなくなっていた自分に、驚いた。
では、なぜ大学受験できたのかというと、それはいわば遊びであり、結果を期待していなかったからだ。
そもそも単位をとるだけのためのテストや聴講も、心身で拒否していた。それはトラウマのようだった。
自転車運転免許のための筆記や実地試験はなんともなく、その試験勉強もできたし、その試験も受けられたのは
その意見の意味が理解できたからである。
大学卒業のための単位をとるだけの試験も出席も、その意味が解らないので、参加できなかった。
そのどの講義も眠いだけで、それに関する本を読む方がもっと勉強になる。
部活は国際仏教研究所に入ったが、そこも、英語の会話の勉強ばかりで、ちっとも仏教の研究なんかしない。
とにかく、
大学で西洋哲学と東洋哲学を勉強したくても、そうした授業そのものが行われていないし、
自分から考えて、討論することさえもしない、とにかく語学だけの勉強だけであるから、実が入らない。

二年目の授業料を払えなくて、滞納していた。二年生の終わりのテストもやはり行けなくて、単位はとれなく、また追試のためのレポートも書く気にもなれなく、
ただ3年生になった時、中退しようとした。
理由として、嘘で留学のためといったが、
休学すれは半分の授業料でいいですというのも変に思えたが、
もっと妙に感じたとは
「あなたは二学年の授業料を払っていませんね」
「払わねばダメですか?」
「払えば、二年生で中退になり、払わないと一年生で中退になります。どうしますか?」
その学校事務員の説明にびっくりした、
(お金で一年中退か、二年中退かが決まるなんて、なんと馬鹿げたシステムだ)
「(それじゃもちろん)一年生退学ということでお願いします」

実際、数十万円の授業料はもっていなかったので、内心 儲かった(助かった)と思ったくらいである。


8.卒論と海外の旅

その時も、アルバイトしながら、海外旅行の資金と、卒論を 1年から二年かけて やるような
一石二鳥を考えた。
まず、埼玉の飯能のアパートを引き払い、自宅にもどる。
生活費が浮くからだ。
卒論を書くためには、膨大な資料が必要であり、その専門の本が必要だった。
国会図書館に夜のアルバイトがあった。
昼は図書館で卒論を準備し、夜はそこでアルバイトをする。
アルバイトをすると、持ち出して、何冊をも貸してくれるので、家でも卒論を書くことができた。
卒論のテーマは決まっていた。

労働論」(働くって何だ?)

当時、生活と仕事のどっちを優先するか?
仕事が主流の風潮に対して、欧米の生活優先の考え方を取り入れようではないか?
テレビのニュースやドラマでも、その論議がかわされていた。

土曜は半ドン(午前中仕事)というのが、普通だった。
それから20年後に、土日休みの企業が増えていき、それが普通になった。

50年後の今、当時の仕事主流の考え方は特に年間の休みが少なく、残業も多いのは変わっていなかった。

私の娘たちが働く企業も、土日休日をはさんでの有給休暇をとり、3泊五日の家族旅行も
年に一度の二月しかとれない状況である。
一方、フランスの教員カップルは一年の半分は休みをとれるが、ただ給与は半分になるという。
それはワークシェアが根付いているから実現できるシステムである。

こうした日本の仕事優先のシステムは当時の若者にとって、
大学卒業しても。正社員にはならず、アルバイトをしながら、自分の好きなことをやっていく青年が現れてきた。

フリーターという言葉ができたのは、それから30年後のことである。

正社員となって、会社の奴隷になるより、アルバイトをして会社から金だけもらい、残業もなく、自由に自分の好きなことをする。会社の奴隷より、会社からの自由を選ぶ若者が出てき始める時期である。

労働論を書いているうち、

労働そのものに本当に生きる道があること、
そこに個としての自分が社会人としての自分になるということ
単にお金を得るために手段でないということ
自分自身の本当の楽しみ、充実感はそこにあるということ
労働そのものに勉強、学問があるということ

それをどう実現したらいいのか?

それには

就社(会社に勤める)と、就職(どの専門の部署につくか)を分けて考える必要がでてきた。

そこで、卒論のタイトルを「労働論」から「労働と職業論」に変更 した。

一つの会社にはいろいろな職業が存在する。
そうしたいろいろな職業は他の会社すべてにも必要なものである。
もし会社に就社したならば、会社に従属しなければお金はもらえない。
それは逆にいえば、お金をもらうためにはその会社に従属しなければならない。
しかし、
そこで与えられた部署つまり職業はそれ自体で、他の会社にも通用する技術であるから、
その会社に従属する必要はなく、従属を強いるような会社は辞めて、他の会社でその職につけばいい。
つまり、会社よりも職業に生きれば、自由をえて、さらに職業で、社会人としての自分を確立できる。

だが、自分がどんな職業に向くのかはやってみなければわからないし、それが好きでも、社会が認めなければそれは職業として認められない。

そこで、卒論のテーマの結論は

一生涯の天職を見出す道が社会人としての自己確立と、生きる充実感が見いだせる


というものだった。

それはどんな部署(職業)に回されても、そこで 自分しかできない仕事をそこでやり、世界一のその職人になることを目指せば、自由とお金と楽しみと生きがいが付いてくる。

職に就く前に、何をやりたいとか、何が好きだというものは 偽の欲望であって、

職について、そこに打ち込むときの、初めて、それが好きか、嫌いかが生まれる
ということも発見した。



9.ワークキャンプと海外アルバイト

卒論を書き上げ、海外旅行費が38万円貯まるまで、一年半かかった。
当時は航空運賃が高く、ヨーロッパ往復には23万円はした。
そのため、
通常の旅行ではなく、働きながら、旅行へいく道を考えた。
神田の古本屋街を歩き回って、見つけたのが

海外のアルバイト情報誌だった。
その発行元が新宿の地球学園村として、1人で担当していたYさんだった。
そこでは
海外のアルバイトだけでなく、海外ボランティアも紹介していた。
そこで、
私はフランス中央のリンゴ農家でのリンゴ摘み取りのアルバイトを予約できた。
また、
オランダで、サイクリングロード工事のボランティアをしながら、食事と住まいを与えてくれて、
2週間滞在できるのも予約した。
そうした予約するお金はほとんど無料で、ただ、そこで航空券を買えばいいだけだった。

夏に1人旅だった。
ロンドンに着き、同じ日本人旅行者数人で、どこか安いホテルを探した。
みな別々の予定があり、私はロンドンを一日まわって、すぐにパリへと旅立った。
泊まるところはみなユースホステルで、当時も今も、一泊500円くらいで泊まれる。

パリを観光しているとき、フランス映画で出てくるエンジン付き自転車を発見した。
38CCエンジンで、自転車の車輪の両横に回転を与えて走るものだ。
自転車のときはその回転をクラッチのようにはずせばいいだけである。
嬉しかったのはバイクのように登録も、また運転免許も必要がなかった。
それが新車で8万円した。
ヨーロッパを旅する交通費は列車やバスをいれても、それ以上かかると見込んだ。
ガソリン代は安く、一日走っても100円くらいですんだ気がする。
もっとも、ガソリンスタンドがいつもあるとは限らないので、安全のため、ガソリンを入れるポリ容器を買った。
最高スピードは遅く、自転車よりも遅いので、たぶん時速25キロくらいだったろう。
その原付自転車はソレックスといったが、色が黒だったので、私は「ブラックバード」と命名した。

そして、ドイツのライン川を下るようにして、オランダに入った。
そこのワーキングキャンプの家に着いた。

14か国26人の男女が集まった。
西ヨーロッパ、東ヨーロッパとトルコで、日本人は私一人だった。
当時はベルリンの壁がまだあり、東ドイツの人もロシア人も来ていなかった。
年上のリーダーはいなく、みな20歳前後であった。
イベントの取りまとめ役は開催地であるオランダ人がやり、食事作りは各国持ち回りである。
毎日、明日は何をするか、いろいろな企画が出され、それを一つ一つやっていく。
もちろん、何の企画がないと、ボランティアのサイクリング道路の工事にいった。
ダンス、スポーツ、旅行、ヒッチハイキングとか、次々とやっていった。
私は英語がわからなく、食事で、カレーライスを作ったが、それに肉を全部いれたため、
ベジタリアンが3人して、「岡部は友達じゃない」とそっぽを向かれた。
やむなく、サラダにマヨネーズをつけてだしたが、満足しれくれなかった。
どういうわけか、
大体男女のカップルができる。
できない男女は少数で、私もその1人だった。
日本ではそんな短期間にカップルができるなんてことはまずない。
そこで、みなどうやってカップルになるのかを観察した。
すると、
自分を好いてくれる人を選び、自分が好きな人を選ばない。
カップルができない人は好きな人ばかり追いかけるか、
好きになってくれる人がいない場合である。

私は「愛されるよりも、愛せよ」というようなモラルぽい考え方に縛られており、
逆の、「愛するよりも愛されよ」という常識的な西ヨーロッパ流はどうにもついていけなかった。
この二週間の滞在は50年後の今振り返っても、最も面白かった体験だった。
それがなぜか?
いまだに、そのなぞがわからないでいる。
そこで会った人にみなまた会いたいと願う今の自分もあるからだ。

ただ、解ってきたことは・・

理解できないときが苦しく、理解できたときが楽しく、
伝えられないと苦しく、伝えられたときが楽しくなる
相手は遠く、文化も言葉も、習慣も違えば違うほど、その理解ができるほど楽しいものはないと思える。


 リンゴ園でアルバイト 
   ブラックバードで、オランダからベルギー・フランスへ戻り、リンゴ園のアルバイトをした。
フランスでは昼食がメインで、その豪華さはすばらしい。
アルバイト先では、ベットも昼食も用意してくれたのだ。
だが、そこには世界各地からアルバイトがやってくるが、
昼食の料金が差し引かれるのを抗議されて、中止になった。
それは唯一の楽しみをうばわれた感じだ。
近くの安レストランか、ストアで何か買って食べるかした。
アルバイト先ではみなお金だけで動いている。
そこでもコミュニケーションも、一緒の食事も、そうした楽しみは価値があるとは思われない。
オランダのボランティアはその仕事や報酬にはほとんど価値を見出さない。
そこで一緒に暮らすコミュニケーションとどう楽しく一緒に過ごすか、
お互いにどう理解しあっていくか・・そこに価値を見出す。

私は働くのがおもしろく、ともに遅くまで働くのはアイルランドの青年だった。
日本人と同じような働き者はアイルランド人だというのが印象的だった。
最終日に園主から、私のリンゴの摘み取り箱の数が多いというので文句がでた。
自分は数えたつもりはないし、誰かがその箱数を書き込んでいた。
それが正しいかどうかを文句いわれる筋はないので、人の二倍は働いたことは確かだったので
園主と口論して、その書かれた数字の給与をもらった。
ひょっとしたら、数字を書いた者が私に色を付けたのかは、自分が数えていないので、確かめようがなかった。

その10日あまりのバイトを終わり、パリにもどり、途中知り合った友人のところに居候し、
愛車の原付自転車ソレックスを彼にあげようとしたが要らないというので、
通りかかった日本人旅行者に半額の4万円で、売り、日本に帰国した。



10.就職活動 
 
  
帰国後、アルバイトはせずに、やりたい仕事の出版関係や報道関係を探した。
大手の報道関係や出版社はまず大学中退は無理なことがわかり、中小の出版社を狙って面接を受けた。
そこで言われたのはなんと大学中退という学歴よりも、高校卒業という学歴の方がいいという。
中退とすると、入社しても続かないとみられるようだった。
何の返事もない科学新聞社が最後に残ったが、まずあきらめて、他の分野の就職口を探した。
造園がやりたかったので、自宅に近い場所の面接したら、即OKとなり、翌日から務めた。
三日ばかり働いていたら、なんと科学新聞社からの面接があり、希望の記者の仕事ではなく、そこの総務部購読係として採用された。給与も造園業の6万円より8万円と高かった。
希望の職業は違えども、希望の出版新聞関係に入れたことは、たぶん、大学中退とはせず、高校卒にしたためだろう。
社長が私を採用したのは、親の生地屋の名前が「なんでもや」だったという。
当初、どういう意味かわからなかったが、入社してすぐに解った。
会社の雑務はなんでもやる部署で、特にひどかったのは、その部署はたった一人いたが、その1人は会社設立時からの40過ぎの社員であったが、ほとんど休みで、週一日か、月に1日かくらいだった。
そのため、その仕事を教えてくれる上司がいない中で、社長がわかる範囲内で教えてはくれていた。
だが、購読係といっても、名詞に購読者を書き、名刺入れファイルを差し込むという 実に原始的方法であり、
しかも、ガリ版刷りの宛名書きで、帯封に手回しで印刷をするという作業だ。
それに、その新聞の届け方がタクシーであり、会社に車も駐車場もないのだ。
当時はまだパソコンは出たばかりで、一台数千万円かかった。
そのため、その部署を全改革し、新しいファイリング、新しい印刷法、50ccバイクによる運搬などとことん変えていった。
社長はとにかく私がやりたいことはみなさせてくれて、
希望の記者の仕事もくれた。
自分の好きな内容の取材をして記事を書いたがほとんど反応がなく。
新製品生地の取材と記事も 広告記事のようでちっともおもしろくない。
科学記事というと、実に難しく、とても私の知識範囲では取材も、理解もできないことを知って、
自分が記者に向いていないことがはっきりと解った。
それ以降、記者になりたいという希望は一切なくなった。
私はむしろ一般にも売れる科学新聞が発行できる会社改革に情熱を燃やした。
若手記者と一緒に その改革をやっていったが、
60代以上の幹部社員が多く、そこを動かすことは難しいことをしった。
自分が科学新聞社でできることはここまでとして、退社することにした。
もちろん、自分が作り上げた部署は新しく募集して、育て上げてから、退社した。



11.親の店を継ごうとした
科学新聞社を辞めると決意してから、次の仕事を親の生地屋を継ごうと、夜の洋裁の職業訓練校に一年通った。
卒業と同時に会社を辞め、繊維問屋に就職した。
親の仕入れ先は端切れであり、いわば半端者で、正規の生地商品ではなかった。務めた繊維問屋は大手メーカーから仕入れ、それを切り売りして、注文服を作る店に卸していた。
その営業を私は都内の他に東北中心に車で在庫を持ち、直接売ることをやった。
その東北の営業を教えてくれた上役が辞めるので、私がその後釜になったわけだが、
その上役が独立して、同じ営業先に売り込みをかけるのだから、会社と独立上役の板挟みになったが、
どちらも仲良くしておいた。
だが、お得意さんの需要は変わらないのに、二つの会社で売るのだから、当然売り上げは半減する。
そして、その務めた繊維問屋は一年半で、突然閉鎖し、私は解雇されてしまった。
それまで、仕事の中で営業という仕事は一番嫌だった。
だが、実際に営業をやってみると、意外と顧客とのやりとりがおもしろく、まあ何とか普通に売り上げができるようだ。
だが、よく買ってくれる顧客には支払いが悪い顧客がいるので苦労した。
自分がどの仕事に向くのかどうかは、やってみなければわからないことが多く。
やってみて、その成績がよく、楽しみを感じるようだと、それに向くといえるのだろう。

仕事をやる前から、その仕事をしたいからで、その仕事に自分の才能や転職があるかどうかはわからないものである。

与えられた仕事を、また継がなければならない仕事をあれやこれややっていくうちに、何が自分に向くのか、長い年月をかけてわかってくるようである。その仕事が好きかどうかはその仕事をやってからでないとけして解らないものである。

いよいよ、
親の生地店を継ごうと、その売り上げや仕入れ先状況を調査し、、実際に、生地の露天商をしてみて、
もはら、既製品を売る洋服やが主体であって、一般家庭が自分で洋服を作る時代はもはや時代遅れになっていると判断した。
店も3坪半しかなく、しかも借店である。時代遅れの商売であった。

そこで、もう残る道は独立して新しい事業を考えてやることだけだった。



12.なんでもやをやった
数年前に俺たちの旅というテレビドラマがあった。
大学の学生同士が「なんでもお手伝いします」と旗揚げし、自転車にのぼりを立て、メガホンで 道を練り歩く。
ちょうど焼き芋屋みたいである。
ドラマでは溝掃除や河川清掃などがあったが、実際はそんな仕事は公共事業であるから、そこから仕事などきはしない。
その時、便利屋という商売はまったくなかった。同じ時期に、元祖便利屋 右近さんが私と同じテレビをみて、やったことで、テレビにでて、注目を集めていた。

私はテレビドラマのように、車でメガホンで、「竿屋竿竹}のように、「なんでもお手伝いします。なんでもやでごさい。ご用はございませんか?」と流してみた。
だが、一日一件で、電球の付け替え 500円だけだった。
それはほとんど「なんでもや」それは後、便利屋という言葉が主流になったが、私はこの「なんでもや」という名をずーと自分の職であり、屋号にしていた。

車で流すよりも、チラシを配って、電話待ちした方が効率がいいと判断し、そのチラシも当時プリントゴッコという色つき年賀状をつくる道具で、何百枚も印刷して、近所に配って歩いた。
ただ配るよりも、半テンをつくって、それに「なんでもお手伝いします」と書いて、広告価値を二倍にした。

そして一日配ってやっと入ってきた仕事は
「電話代を払いにいってほしい」という依頼を1500円で受けた。
苦労して稼いだそのお金はながく神棚にいれて、時々それを手にして、その重さを感じていた。
1500円稼ぐために、どれほどの経費と、どれほどの労力とどれほどの気力・知力が必要だったか!

自分で事業を起こすことも難しいが・
今までなかった新事業を起こすことはさらにもっと難しいことは身に染みるほど感じていた。

一番難しかったのは値段設定である。
「なんでもや」はいわば雑務専門で独立し事業である。
どんな仕事が入ってくるかは前もってわからない。仕事が入ってきてから値段を考えるのでは遅い。
そこで、当時のアルバイトの時給が600円から1000円(今も変わっていないのは驚きである)だが、
それ以上の時給1000円とチップ制でスタートした。
だが、お客が値段を先にいってくれといって、どんな商売なのか、また値段も決まってないので、非常に怖がったのである。
そこで、時給2000円にした。
便利屋右近が時給3000円というのだが、それはアルバイト料の3倍以上なので、それだと気軽に頼めないと思ったからだ。
時給2000円でもあまりお客はこない。どうせ来ないのだから、たまに来るのだから、時給3000円で値上げしたら、むしろ、その方が客がきた。

それから30年間、時給3000円で「なんでもや」をやることになった。

一年間 そんな便利屋をやっていたが、一日一件も仕事はやってこない。唯一救いになったのが、元勤めていた科学新聞社で運搬の仕事を月に一度くらいくれたくらいである。
月の売り上げなんか2万円くらいである。
毎日チラシを配っては家でテレビをみながらゴロゴロしていた。
その時、アメリカの珍商売の「ゴリラメッセンジャー」というテレビをみた。
これは面白いと思って、早速 ゴリラのスーツを買い求め、実際に、友人の結婚式の椿山荘で試しに新婦に花束とお祝いのメッセージを届けることをやってみた。反応がよかったので、東京新聞の三行広告(一回3000円)を出してみた。

便利屋感覚で、数分で終わるから、1回3000円で広告した。
でも、それも 今までにない商売なので、顧客がくることはなかったが・・・
なんと雑誌の取材がやってきた。まだ実際の仕事は来ないといったが、・近くの商店街を花束をもって歩くだけでいいので写真をとらせてくれといった。

その時、カンガルー便、黒ネコ便という宅配便が流行ってきたので、そういう宅配とは違う 本当のゴリラの宅配という意味をこめて、 その事業を 「ザ・ゴリラ便」と名付けた。

一つの雑誌に大きなゴリラ便の写真がのると、次から次と 報道陣が押し掛けてきた。新聞・雑誌はもちろん、テレビまで その取材対応の方が忙しく、実際の仕事はほとんどこなかった。

でも、取材先でおもしろいということ、マスコミの宣伝効果もあり、徐々に仕事がはいっが、やるのは数分だが、出張料やしかけ、その材料費などもいれても、最低8000円とらないとやっていけないので、値上げした。

そのマスコミのおかげか、ゴリラ便だけでなく、本業の便利屋の方も、仕事が入りだし、働く人も必要になってきた。
だが、アルバイト料など払えるほどもうからないので、
売り上げの半分くらいをあげていた。
アルバイトにもっとやる気にさせるため、すぐに、売り上げ時給3000円のうち、時給2000円あげ、ゴリラ便は8000円の内半分の4000円払った。

つまり、売り上げの半分くらいを払うだけでいいので、けして、給与を払えなくてもいいシステムにしたのである。
もちろん、売掛なしの現金払いで、やった本人が集金してくるシステムである。

しかも、仕事が入ってから、必要な人数を電話で呼びだすという一回限りの契約みたいなものである。
働く人は募集をしなくても、友人の友人が口コミでひろがり、いつのまにか4畳半の事務所はそういう若者のたまり場になって、いつも誰かがゴロゴロとしており、そこに寝泊まりまでできたいた。
大きな仕事が入ってくることもあった。
大きな展示会のコマを設営する仕事である。
メンバーが100人くらい必要だったが、うちで集められるメンバーは10人くらいだ。
総指揮官は私である。
あとの90人は依頼者が大手の派遣会社で時給1000円で集めてくれた。
私の便利屋は似たようなアルバイトだが、けして時給3000円は負けなかった。
アルバイトが私のとこで働けば時給2000円になり、他の派遣会社で働けば時給1000円になるのである。

そこで、私はうちのアルバイトをリーダー役にし、それぞれに9人の派遣アルバイト配下にもたせチームをくませた。

まず、図面の観方、製作の仕方をうちのリーダー役に教え、それを配下に教えるよう指揮した。
それが三日間、私とリーダー役はほとんど徹夜だが、元気いっばいだが、派遣会社のアルバイトは定時で8時間で帰っていった。
働く環境が違うといかに人は変わるか、身を以て体験した。

やっと終わると、私はその慰労のため、どんちゃん騒ぎを居酒屋で10人だけでなく、その友人も含めて無料招待した。
それだけ儲かったから還元したくなったのである。

実際の社長の私の給与は売り上げから経費を差し引いたものだが、アルバイトの者より少なかった。
そこで、
会社の実態を働く者に解ってもらうため、フリー社長制度を設けた。

私は逆にアルバイトとして働いて時給2000円もらうようにしたのである。

4人挑戦したが、みな月収3万円とれればいい方だった。
というのは、事務所の4畳半二部屋の家賃月10万円を親に支払わねばならなかったからだ。
女性社長はとてもわりにあわないとして、時給1000円を要求したので、もちろん追加して払った。

そして、その後、個人の仕事ではなく、一つの会社から毎日のように仕事が入りだしてきたときに、
一番古いスタッフに社長業をまかせ、私は自分がやりたいサイババの信仰生活をはじめており、そのメンバーとのホームページで忙しくなっていた。

親も亡くなり、店の経営もしなくてはならなくなった。
生地屋の一日の売り上げは6000円がいいところだった。
その驚くべき状況に、いかに生地屋に未来がなかったかと経営を引き継いで、思い知ったのである。
どうして、店の家賃さえもでない商売を長年続けてやっていけたのか? 
その理由は赤字続きでも、老人の楽しみはそれ以外になかったからである。
生活費は店経営ではなく、家のアパート収入だけで十分だったのである。
両親の店の毎日の仕事は道楽であり、ほとんど何もしなくていいアパート経営がお金が入ってくるものだった。

便利屋を20年も続けていて、
ほとんど社長をまかせていたOさんが、長年のスタッフ二人を連れて、毎日の仕事をくれる会社に就職した。
そして、
まだ新米のアルバイトに社長をまかせて、退社したのである。
店はリサイクルショップにして、それをYさんが経営した。
もちろん、どちらからも、私に収入があるのではなく、むしろ、何かと足らないとお金をだすくらいだった。

私自身の生活費は親の遺産相続したアパート収入があり、自分がやりたいことをいくらでもできた。

新米のゴリラ便の便利屋社長は自分のアパートに事務所を移していた。
ゴリラ便が好きなスタッフは独立して、ラブゴリラとして独自の活動をしていた。
ゴリラの仕事が入ると、新米社長はできないので、独立したラブゴリラに仕事を回した。

私はサモア人の妻とは離婚し、二人の娘をひきとり、育てていた。
都会生まれの私は田舎生活にあこがれていたこともあり、
娘たちに山村留学の話をもちかけ、山梨に引っ越すことにした。

東京の家はもっぱら、サイババのホームページを作り、翻訳活動をする場としての集まりとなっていた。
ゴリラ便のスタッフはみな独立して、サイババの翻訳するUさんには、大正大学の先輩のお寺の僧侶になるように世話した。



13.ゴリラ便の解散

山梨の丹波山村山村留学先に ゴリラ便社長がアルバイト二人と奥さんと子を連れてやってきた。
キャンプを五日市の河原でやろうというのだ。
それまで、一度も私のところに、何の相談も遊びもきたことがなかったのでびっくりした。
近くの温泉も紹介して、楽しんで帰ったのかはどうもふにおちなかった、
奥さんの様子が変で、夫婦でなにやら揉めていたようだった。
なにやら、私に相談したいことがあってやってきた感があり、それを話すことを奥さんに止められ、言い合いになったようである。

だが、それがゴリラ便の解散へと向かう前兆だったのである。

リサイクルショップをまかせていたMさんから、
便利屋を任せていたNさんが、ネットの詐欺商法にハマって数百万円とられ、経営の危機にあることを知らされた。
ゴリラ便のホームページは私はすでに作っていたのだが、Nさんは独自に詐欺的ホームページ作成会社に依頼して作った。それがリースで、そのホームページ作成ソフトは無料のソフトで、その会社が開発したものではない。
その詐欺商法をする会社を徹底的に調べると、その被害者は小さな会社で、そのリース代金が払えなくて潰れたり、自殺に追い込まれる商店主もいることが判明していた。
Nさんは私が雇ったものではなく、Oさんが雇って、その社長業をNさんに渡したため、彼の人となりはよく解らなかった。そのためもあり、私と距離をずっとおいて、会話することもほとんどなかったのである。
しかし、
Nさんが詐欺商法に困っていることが解り、その契約を破棄するよう電話したが、一向に返事も、電話にも応答しなくなった。
そこで、会社の経理簿・・これも市販ソフトを導入した会計ソフトで管理していた・・・をデーターを送るように促した。
だが、一切Nさんは応じることはなかったし、私が山梨に山村留学しているため、会う機会もない。

一年間そんなやりとりをしていたら、
Nさんが、社長をやめるといいだした。
私は即OKした。しかし、彼は辞めないで、続けていた。
その配下であるSさんが、私に次の社長にしてほしいというので、OKして、
その社長業をやらせるために、まず簿記を学べるように、その本を彼に送った。
だが、その返事もなく、どうやら、二人は結託して、私から逃げ回っていた。

そうこうしているうちに、Nさんや山梨にキャンプに来たときからも、二年の歳月が過ぎた。

リサイクルショップに便利屋ゴリラ便の電子看板があったが、それも60万円もするリース看板で、それも無駄なので、とりはずしさせ、業者に送り返した。
あきらかに、
彼はこのままいくと、借金で、便利屋を潰しかねないことがわかった。
とにかく、私に会うことも、電話に出ることも、すべて拒否してきたので、
私は強硬策を思いついた。

メインバイクの八千代銀行を出し入れを電話で中止させた。
いわば、自分の会社が盗まれたため、その会社の資産を凍結する手段をしたのである。

彼は困り、八千代銀行に行った私のところに来た。
銀行出し入れをするには、その銀行印が必要だった。

そこで、判明したのは、彼は有限会社 ザ・ゴリラ便を乗っ取ろうとしたことが判明したのだ。

彼は以前自分が代表取締りになるので、その会社の登記印を貸してほしいというので貸して、
済んだので返してもらった。
だが、彼はそこで、会社の登記印と銀行印が似ているので、それをすり替えて、私に返したのである。

これは長年ののっとり知能犯であり、そうした偽造工作はあとからいくつも出てきた。

そのため、メインバイクだけ資産は凍結し、翌日には会社の車二台やパソコンや道具類をみな没収しようとしたが、
パソコンだけは自分が勝ったので、そのデータ内容も一切返却されなかった。
税金申告の経理簿の控えとしての書類だけは返却させた。
車の中には返却されまいと、ゴミの山が摘まれていたが、おかまいなしにそのまま持って山梨のもってかえった。

現在の顧客の状況、売掛や仕事ないようは 紙切れ一枚の彼のメモだけであり、それだけで、便利屋の社長を私がすることにした。

会社の資産とはお金でも、経営者でもない、お得意さんつまり顧客なのである。
30年間続いた顧客こそ、本当の社長であり、株主でもある。

「お客様は神様です」

という名言は実際には本当である。お客様がその店を会社を支えているからこそ、経営する人間にとって、自分たちを活かしも殺しもするのがお客様である、
それは
ものの価値は需要と生産で決まる。

その需要こそお客様であり、生産が店・会社である。

乗っ取りNさんは、部下とつるんで、ゴリラ便の上得意顧客を確保し、新たに会社の名前をかえて営業しだした。
驚いたのは
長年の顧客である科学新聞社の仕事依頼の担当者は私の元部下ではなく、その部下で知らない者だったため、Nさんの方に依頼を変えていた。

それは
私が社長をしても、実際は山梨にいるので、東京での仕事ができないからだった。
そこで、顧客を別な信頼ある便利屋や地元の知り合いの店に任せることを考えたが、やり方が違うので、そこからのリベートを考えたが、それは無理と判断し、無償で顧客を紹介して、けして、乗っ取り犯のNさんの新会社は紹介しないことにした。
便利屋の保険屋さんは律義に、新会社に営業をいってもいいかというので、OKした。

企業競争があるが、それは顧客つまり神様乗っ取り合戦みたいなものである。

そして、半年たったときに、
別会社に引き抜かれた3人のうち、1人が社長とけんかして、退社してブラブラしていた。
そこで、彼にゴリラ便の社長になることを依頼し、OKしてもらった。

だが、彼は老々介護をしており、自分で仕事をすることができないので、若きスタッフを集め、働いてもらうようにしなければならなかった。だが、そういうスタッフをそろえる経験は彼にはなく、結局、週一で老人を車で連れて散歩させるだけの仕事だけになった。
それさえも、彼は老々介護は24時間体制なので、それも断ることになったのである。
それを機に私はゴリラ便(私が再社長になってから、有限会社から株式会社に変更していた)を解散することを決定した。

同じ時期に、
店のリサイクルショップを任せていたSさんの経営にも、疑問があり、
その収支報告を毎月出させた。
3か月くらい送ってきて、驚いた。
なんと、売り上げが月平均25万円しかない。
単純粗利は4割なので、粗利益は15万円である。
家賃と水道電気ガス電話などの諸経費を合わせたら、15万円は越してしまう。

つまり、
赤字というより、自分の生活費つまり給与はまったくなしでボランティアでやっていたのだ。

しかも給与ゼロでも、まだ赤字は自分の親の遺産と貯金をくずしてやりくりしていたことが判明した。

そこで、
自分の給与が最低生活費20万円がでるためには、逆算して、いくらの売り上げがでればいいかを計算した。
35万円が売り上げの4割になればいいので、売り上げは35万円÷0.4=87万5千円となり、
一年間の猶予を与え、売り上げが87万5千円になったら、店経営を継続してもいいということにしてOKしてもらった。
一時、50万円になったときもあったが、続かず
一年後、彼は店主をやめた。
そこで、別な事業をするにあたって、Sさんが提案したレンタルボックス(手作りの商品をボックスに並べその貸しボックス料金とその売買代行する店)事業を始めることにした。
そして、
そのレンタルボックスを原宿でしているところににいき、はたして、事業として成立できるかどうかを取材した。
いろいろな本が出、いろいろなネットで騒がれていたが、
実際に活動しているところを取材していくと、それは経営としては持続不可能な要素がいくつかみえてきた。
実際に、自分の手作り品をレンタルボックスに毎月支払う顧客が確保できるかの問題が多く、
しかも、手作り品が売れる要素は少ないことがわかった。
取材している1時間にも、顧客の訪問さえ、ゼロだったのである。

そこで、レンタルボックスは将来性なしと判断し、別な事業を考えた。
レンタルボックスは経費がかかりすぎるので、失敗したときのマイナスが大きい。
やむなく、
1日15000円の日貸し店舗にすることにした。
だが、その顧客はほとんそ確保できないでいた。
店にその看板広告をしても、ほとんど借りるお客はいない。
そのため、
無料でおもしろい手作り品を売っている人に店を貸していた。
その1人の手作りカリンバを売っていた人がよく売れて、断ったが、その半分の売り上げをくれた。
その彼にどうしたら、店を借りる顧客を集められるか聞いた。
すると、
店を5つに分けて、一つのコーナーを一日3000円で貸せるフリーマーケット店にすればいい。
それはただ、店の床にテープでラインを引き、売り場のテーブルを置くだけで、経費がほとんど変わりがないので失敗のリスクがない。
さらに、彼は広告をフリーマーケットの雑誌に載せたらどうかとアイデアを出してくれた。
そのアイデアをすぐに実行したら、
顧客はやってきた。
だが、
5つのコマがいっぱいになることは月に一度しかなかった
一年続けると、
よくて3つのコマが埋まるだけ、
さらに一年続けてみたが、
よくて1つのコマしか埋まることはなかった。
つまり、
一日3000円の売り上げ平均であるから、
家賃さえもでない状況になった。
しかも、
ゴリラ便を解散したときの社長に店の経営のため、
その給与を月10万円支払っていたので、赤字が増すばかりだった。
さらに、
毎日借りる顧客が隣の顧客の商品を盗む事件が起きた。
また、
顧客同志でもけんかトラブルが多くなり、
店の小分けフリーマーケットはやめ、
一店舗全部の日貸し店舗に変えた。

そうした商売は同じ商店街で 週(一日17000円になる)単位で長くやっていた。
そこを借りる顧客は年間契約で、週単位で、顧客はテキヤさんばかりである。

そこで、
うちは週貸しではなく、日貸しで、15000円で店舗まるごと貸すことにした。
すると
うちにそういうテキヤの顧客が増えてきたが、
支払も、約束も、すっぱぬく人も多くなり、厳しく前金で、しかも、事前に振り込まないと予約できないように設定した。
そのうち、
競争相手の週貸しが1日13000円にしたので、うちは1日12000円に値下げして対抗した。
というのは、
この商店街で、一日の売り上げの粗利が12000円以上だすことは、実際にリサイクル品を売っても難しいのだ。
それは長年両親が雑貨、生地屋やり、また、私がリサイクルショップをやってもそれは至難の技なのである。

日本全国の商店街そのものが、シャッター通りになってきた時代に、一日3.5坪の店で、粗利5割として、24000円の売り上げを出すことはよほどの商売でないとできないものである。

さらに、それで二年続けてみたが、赤字は増大し、
顧客も、月の半分しかなくなってしまった。
さらに、家賃が8%の消費税増額を要求してきたので、ピンチが増し、店の閉鎖を決心した。

店閉鎖で、その記念に、前のリサイクルショップ店長が中心になって、山梨のテントキャンプにやってきた。

その後、
私の両親も、前の店長も、今のフリーマーケットも、どうして赤字で、生活費もでないのに、半世紀以上も続けているのか? 
考えた。 その答えは


人はお金では働かない! ボランティアで働くのだ!

両親も、リサイクルショップ店長も、今のスタッフも みな道楽で働いていた。
そこで、つながる人間関係、両親は老後の楽しみであり、店長は趣味であり、今のスタッフは老後の話し相手を得るためだった。

私は店を閉鎖をせず、金銭的経営ではなく、ボランテイア経営に切り替えた。

まずスタッフの給与は歩合制にし、顧客があったら、一日3000円にし、当日半額顧客の場合は1日1500円にした。
さらに、
一日の店舗貸し料金は持続経営できる1万円に決定した。
また、
よけいな経費はすべて削った。
家賃の8%値上げは納得できないとして、5%から8%の差額3%として、その分の値上げ分を払うということで契約書を送りかえしたが、未だにそのままである。つまり、昔の契約が成立しているだけである。
でも、私は3%値上げ分だけをうわ増しして、家賃を振り込んでいる。
それも家主はなんの音さともは、未だにない。

電話も、ネットも、見張りカメラも撤去した。

さらに、問題なったのは、毎月週単位で借りてくれる団子やさんが、保健所の許可がないと出店できないといってきた。
そこで、
私は出店できるように、店に流しと手洗い場とガス湯沸かし器を自分で改装、設置して、その営業許可もとった。
そうして、一番の顧客が離れるのをくい止めた。

それから二年たつと、なんと赤字どころか、逆に少ないが黒字になり、二年で100万円(1年で50万円)になった。
これが私のネットによる経営社長の給与になった。

もちろん、それまでの赤字の合計には露程とどかないが、過去をみなければ、ボランティアとしての持続は可能だと思われた。

この店の名「フリマ笹塚」がボランティアとして、維持できるためには、その社会的価値があるかどうかにかかっている。
フリマ笹塚の出店者はもちろん、その顧客の住民の需要があるかどうかである。
それはまた、そこの笹塚十号通り商店街の需要があるかどうかでもある。

もし、時代はネットショップ、大手のスーパーや 大手ショッピングセンターに代わっていくなら、その需要はなくなる。
また、フリーマーケットも ヤフーオークションのようなものが主流になってきて、その需要もなくなるのであれば、そのボランティア活動さえも、意義がなくなり、閉鎖した方が世の中に為になるといえるだろう。

だが、
世の中全体が、金銭経営ではなく、ボランティア経営が主流となってきた場合は、フリマ笹塚の店は家賃は下がり、顧客も、テキヤやプロの商売人ではなく、手作り品や手作りの食品や不用品交換の店として栄えることにもなろうと思われる。

それは
時代がベイシックインカムを実現させた場合、人々はお金のためでなく、お互いの楽しみと生きがいのためにボランティアするのが当たり前の社会になってくるからである。




14.ベイシックインカムと仮想通貨

50年も働いてきて、つくづく感じたことは
お金はお金で稼ぐのであって、労働とお金は換算できないということだ。
以前、地域通貨として「ありがとう通貨」というのを作ったことがある。
1時間の労働を1単位として1ありがとう円にして、お互いに労働時間を交換すれば助け合えるのではないかとした。
もっとも、ほとんどの地域通貨はこうした時間通貨なのである。
だが、すぐに挫折した。
労働の価値というのは時間でも、お金でも量れないことに気が付いた。
大事なのは「どんな労働をするか?」である。
30年も便利屋で自給3000円でやってきたが、それで経営は持続できなかったので解散したのである。
労働の内容によって、それは人それぞれの技術や知識や情熱でも違ってくる。
人はその労働の価値を時間では評価しない。
その労働がどれほどの自分にとって助かったのか? 逆に迷惑だったのか?
それはその結果次第なのである。
アルバイトがなぜ続かないのか?
それはその人の労働価値が、機械の歯車のように、常に同じ賃金でしか評価されない。
まさに、それは機械でもできることである。今ではAI ロボットとでき、むしろ、その方が何十人の働きをする。

人の差はそうないが、その環境と運によって、その人の時給は100円にも、100億円にもなる。
それが現実である。それを無理やり同一作業同一賃金というのは人を機械として扱うようなものであり、
人を人としてみるならば、労働をけしてお金で換算してはならないということである。

世界樹に地域通貨があるが、一つもうまく稼働しているところはない。
今は
地域通貨に代わって、仮想通貨が大きな貨幣改革として 次の時代へと向かっている。

ほとんどの仮想通貨は投資で儲けるもので、働いて設けるものではない。

1ドルが二年で1万ドルにもなるのが仮想痛あKである。
それは馬券でいえば万馬券に当たるようなギャンブル通貨なのである。

世界の経済は実質経済と、金融経済に分かれており、
真面目に働いてお金をえているのが実質経済であるが、、働かなくて、お金でお金を儲けるギャンブルで儲けるのが金融経済である。

世界の金融経済の規模の方が実質経済よるもはるかに数倍も大きいのである。

こうしたお金に対して、「お金とは何か?」と何もわからずに、ただお金を得ようと、働き、投資ギャンブルして金儲けようとする。

お金のなかった時代から、お金のある時代に変わったのはなぜか?

お金とはどういう意味があったのか?
それをきちんと整理して、考え直す必要があるだろう。

8年前に「お金は腐る!という自然経済学があることを知って驚嘆した。

どんな自然なモノも、永遠に同じ姿同じ価値があるものはない。
昔の日本のようにコメがお金に換算されたら、コメは腐るけど、お金は腐らないのはおかしいだろうという考え方である。

コメは農民が労働して作るが、お金は日本銀行が印刷するだけで無限に作れる。

人が生きていくための必要なコメ生産労働と、機械でいくらでも印刷できるお金と同じような扱いをすることも、また交換すること自体、自然ではない。

同じ扱いというのは、同じ性質同じ価値があるもの同士に対してできることであって、
コメとお金と同じ扱いは人と石ころと同じ扱いをすることであるともいえよう。

アメリカの貧困者に配られるのはフードスタンプであって、お金ではない。
食料の交換券である。
本来のお金の役割は、そうした生きていくために必要なものの交換券であった。
その交換券をさらに増やそうとしているようなのがギャンブル経済である。

お金とは本来 今あるものを みんなで分かち合って みんなが生きられるようにするシステムである。
食料を奪い合って、奪い合った者だけで生きられ、奪われたものは餓死して死ぬような奪い合い競争のためのシステムではない。


憲法で保障されているように、

第二十五条
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
それを実現するためのお金のシステムである。

それは
一部の国民だけでなく、すべての国民に対してであるから、
無条件で、国はすべての国民に最低限の生活保障としてのお金を送金するベイシックインカムをしなけらばならない。
そのためのお金の分かち合いをし、

そのベイシックインカムをまずしてから、それ以外のこと、それは市場競争で技術を高めたり、遊んだりしてもかまわない。

つまり、

お金とは最低限のすべての国民への生活保障としてのベイシックインカムが基盤にあって、
それ以外の労働、生産と消費、金融 市場競争でお金の奪い合いが正当化されるのである。

それは麻雀で、みんなで遊ぶ場合、
みんなに均等にお金をわかちあって初めてゲームし、その勝ち負けを楽しむことができると同じである。


人は働かざる者は食うべからずではなく、

人は食えて初めて働けるのである。



メダカの苦難克服法



自然観察 自分と社会との葛藤において、両者がいかに生き抜いていけるか?
メダカもまたその迷路(苦難)から抜け出して、自由な労働と生活をえようとする。
それは叶うことを自然と生き物の間で見つけ出すことができる。