非合理の智
1.愚知の智 | |
「面倒くさい」と思って、その行動を辞めたり、しなかったりして、そのまま放置していたり、 もっと簡単で合理的な方法でその目的を達成しようとする。 ここに、 合理の愚がある。 例えば、 旅行にいくとき、 目的地に行くのに、飛行機で行く場合と、歩いていく場合がある。 旅を楽しむとしたら、どちらの方がより楽しいかといえば、歩いていく場合である。 でも、 時間と予算と目的という見地からの合理性だったら、飛行機を選んだ方がよいと判断できるが、 旅行を楽しむことができるかというと、歩いて時間をかけ、予算内で旅した方がよいだろう。 目的地に早く達成するのはビジネスには有効だが、旅を楽しむには一時的にすぎない。 戦争を始めたり、終わらせるのに、 早くやるのは、武器は有効だが、 平和への道をながく構築するには、ゆっくりと構築していった方がより有効である。 それは、戦争を予防することも可能になる。 国際問題がからむゴルディアスの結び目ができたとき、 それをほどくのが面倒だというので、斬ってしまうとき、 一時はうまくいくが、さらに、ゴルディアスの結び目は複雑に固くなり、斬るのも難しくなる。 だが、 面倒くさくても、一歩一歩ほといて、平和への道を有るんでいくことが 再び、ゴルディアスの結び目ができた場合、小さな結び目をほどくことが簡単にできるようになる。 諺にも、 急がば回れ は、 面倒くさいと思ったら、 その面倒に真の喜びと目的があり、 急がば面倒くさき道歩め 足るを知れ 小食に真の満足あり 不知と智 もまた、そうで、 真実を知ることはけしてないかもしれないが、 真実を求め、小智を積み重ねて、けしてあきらめないところに生きる意義がある。 真実を知ったとか、悟りを得たとかいうのは、 思い込みで自分を神仏にしたり、他を神仏にして服従してしまうことである。 常に自由に平等に楽しく生きるには 何度も生まれ変わっても、真実を求めていくことが必要である。 悟ったり、他を悟った人とか、神だと信じてしまうと、 それは思い込みであり、妄信であると検知したほうが無難である。 常に完成、真実探求、恒久平和を求めても、その終わりがなく、そこに向かうのが 人間らしく生きることであり、幸せな人生を歩むことができる。 |
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2.人の数だけ神がいる | |
一神教と多神教において、 一神教は他の神を受け入れないのでどちらが優位かと戦争するが、 多神教は他の神を受け入れるのでそれぞれの役割をもち共存するので平和になる。 神は真実また自由また絶対や悟り(仏)という多面的な言葉と方向性をもつゆえに、 世界を共存平和にもっていくには、 今生きている人の80億の数だけの神がいるとすれば、 80億それぞれの自由は認められ、共存しあう道が開ける。 それは 絶対者なる神が人間の数だけあるということでもある。 それ故に、自分の自由を認めるならば、他人の自由を認めることが必須の条件となる。 上の者に服従しなければ生きていけない社会ならば、 そこに自由はなく、政権交代を武器によって繰り返される。 |
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3意識レベルの変革とは | |
プーチンの意識がNATOを敵とし、ロシアとの友好国を味方というならば、 このロシアの敵と味方意識を取り払い、 新たな意識を構築するには、 プーチンはNATOに加盟すれば、NATOを恐れることもなく、自国をNATO以外からも守れるようになる。 これが 自分の心の中の敵味方の意識改革をすることで 平和となる道である。 武力戦争する行為を敵とし、非武力平和する行為を味方という意識に変革することである。 |
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4,真の目的は手段にこそあり | |
人生の意義を考えると 人の一生は人類の歴史においても、一瞬である。 そして、 ひとそれぞれ、短くも長くもあり、 また、悲惨・幸福 有名無名 汚名名誉などの残されたものの結果もさまざまである。 そういう結果から人生そのものをみたら、不平等極まりない。 しかし、 その結果をもたらす手段はみな「今生きている」ということで平等である。 そこに貧富も、短い長いも、権力ありなしも、関係なく、平等にもっているものである。 その人はみな平等であるという真実は その生きた結果の姿にはなく、どう今を生きるかという手段にあるということだ。 しかも、 生きるということは、目的であり、手段であるということ。 この真実をもって、 たとえば、今のウクライナ戦争が 「平和のための戦争」であったならば、 平和が目的であり、戦争が手段とない、 幻にとらわれた生き方である。 平和目的ならば、平和的手段になる。 戦争という手段からは、戦争目的結果しか生まれない。 つまり、 生きるということが目的であり手段であることから、 平和になる目的は平和的手段でしか得られない。 目的は今の予測した未来にあり、 結果は今の状況をもたらした過去にある。 人は何のために生きるのか? その答えが、 生きることが目的であり手段であるように、 過去何があったかでも、 未来何があるだろうでもなく、 今何をするか、そこに生きる意味のすべてがある。 |
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5. 健康・平和・自由もその目的に向かう手段にあり | |
相対的な善悪、正邪などあるが、そのどちらも対照的な生死からくる。 そのため、 生きるという方向へ向かう過程に、生きる意義があり、また解決策があるともいえる。 結果は常に生死の姿があり、どちらが良いとか悪いとか断定したりできるものではない。 もし、それを断定し、決めつけたりするば空しきことである。 何故ならば、 生きる結果はみな死であり、 死の結果は新しき生であるからだ。 また、 人類という生死を観察すると、 人類のうち、絶滅種となるか、新種として生き残るか、そのままの種で生き残るか三種に分かれるかもしれないが、 他の生物との和合でも、うまくやれるかということも関係してくるだろう。 どんな結果になるにしても、 生き残れる道を求めていくというのが生きるという喜怒哀楽の幸せを得られる道であろう。 |
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6. 愛贈り | |
恩送りは例えば親の恩を親が亡くなってしまい恩返しできない場合に、 子に親への恩を返す代わりに恩を送ること、贈るということである。 これは 時の流れは常に先に前に進むからであり、返すことはできないことからも 恩返しは難しく、恩送りが自然のものとなる。 恩は愛ともいえるようで、 昔から、どうして相愛は難しく、三角関係になってしまうことが多く、 みな片思いが自然の感情になる。 愛する人に愛されることは難しく、 また、愛される人を愛することもまた難しい それは愛し愛されることはまことに難しく、恩返しと同じく、 愛される人を愛することができたときには、愛する人が別の人を愛しているということも多いからだ。 どうして 時間的ずれにしても、 相思相愛なんてことは奇跡に近いもので、 そうみえるものは、相思相愛ではなく、別な現実的な生活しやすいところからくるのようにさえ思える。 愛の反語である憎しみとて同じだろう。 もし、殺されそうに、また殺されたとしたら、また愛する人を殺されたら、その者への憎しみをもつだろう。 だが、 その相手が死んでしまったら、その憎しみはどうするのだろうか? これが憎しみ送りである。 その憎しみを新たに殺そうとする人の行為に贈ることである。 また、 その殺人者が生きていたら、過去の殺人行為を憎むのではなく、今また未来の殺人行為を憎むように送ることである。 恩 愛 憎しみのいう心は 時の流れのように、先に先に送っていくことで自然の心と行為を産みだし調和する。 だが、憎む相手に、憎み返されたら、それこそ、戦争が拡大して、終わりなき、憎しみの地獄世界へとなってしまう。 憎み返しを望まず、憎しみ送りをすると平和へとなっていく。 |
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7、武力防衛は先制攻撃に発展する | |
憲法9条の二項の解釈があいまいになっている。 そのため、憲法改正の是非に繋がってくるのだが、 現実的な防衛は武力防衛が主流であるし、 武力防衛ではない、平和的防衛技術の発展が遅れており、 戦争的武力防衛技術のみが発展するために、戦争はつねに繰り返され、また拡大されてしまう。 そこで、 憲法9条の二項の解釈と自衛隊の在り方の問題がある 「焦点は「陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権は認めない」とうたう2項だ。 政府は自衛隊を「日本を防衛するための必要最小限度の実力組織」と位置づけ、2項が禁止する「戦力」には当たらないと説明している。 ただ、多くの学者や共産党などは、自衛隊は事実上の「戦力」だとして違憲論を展開する。 この論争に決着を付けるため、2項には手を加えず、自衛隊の存在のみを明記するのが首相らの考えだ。」 陸海空軍その他の戦力とは、相手を殺傷する能力のある武器の使用と保持である。 そのため、今の自衛隊が保持する殺傷性のある武器が多いので、それは明らかに憲法違反である。 まして、 過剰防衛として、敵からのミサイル攻撃される前に、ミサイル基地への専制防衛はあきらかに先制攻撃と同じであり、かつ、防衛を脱した武力攻撃である。 そして、自衛隊は 防衛のための殺傷能力のある武器の保持も使用も開発も、借りも、買取はできないとし、 相手を殺傷せずに防衛する相手の殺意を制する防具や麻酔や一時的拘束の保持と使用と開発と技術を 人的戦争災害と自然災害と合わせて、国民の命を守るような避難訓練や防災設備、政府機能維持するデジタル政府などの準備と制度や開発などの平和的防災制度と発展に寄与できるように変更する。 今の自衛隊はほとんど自然災害に出動することが多いことも、その存在意義は大きいといえよう。 |
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8.我満は努力 | |
解っちゃいるけど止められない 喫煙やギャンブルなどの依存症であるが、 それは食べ過ぎなどのメタボにも通用する。 どうして、そうなるのか? 本当に解っているのか? 我慢できない理由はまったくわかっていないのではないか? そこで、 我満は努力と同じだってことに気が付かされる。 我満は忍耐ともいうが、忍耐の忍は心の刀を治めるとも読める。 感情=心の爆発や発現を抑えることが忍耐であり、我慢である。 我満はいわば感情を抑える知性の発動力になるともいえる。 止められない=病められない感情(心)を抑え、その気持ちを我慢して、遣らない=行わないようにする力が 平和や健康や自由への知性的な冷静さをもって対処する、観察や行為をする努力に値する。 我満することが努力することだということを解っていないから、 病められない(依存しまう)ということになる。 つまり、 知性的な行為には、 我満・忍耐は元になる力の源泉になるということである。 爆春する感情力を知性的な方向(健康・平和・自由)に、軌道修正する 一時的な貯蔵庫といえるだろう。 |
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9.共に生きて、共に死なず | |
殺さず、殺されずを発展させると ともに生き、ともに死ぬな!になる。 生物界において、同種の間で、これが実行されるとその種は存続できることになる、 生命自然的な行動指針になれるだろう |
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10.忍努柔剛 | |
忍耐がなにもしないように努力することだが、 その努力は力を入れずに抜くことで行われる。 いわば、筋肉の緩慢と同じである。 忍耐に力をいれてしまうと、そこにストレスがかかり、また、爆発力をもたせてしまい、 行き過ぎた努力になり、やりすぎてさらに病気になるような ダイエットのリバウンドのようになってしまう、 つまり、 忍耐とは脱力のことであり、自然にすべてまかすということで力をぬくことである。 柔よく剛を制すというのも、 柔よくとは逆らう力を入れずに、自然にまかすのである。 相手が剛で殺そうとするならば、 危険を察知する蚊のように、するりと身をかわし、逃げてしまったり、隠れてしまう。 けして、あいての殺意に反撃しようとしはしないものである。 それは、 瞬間的に物が目に飛んできた時に、めをつぶって身を守るようなものである。 忍努は自然と人為力力の対比である。 柔剛も自然と人為力の対照でもある。 こうした、反応を感情ぬきに知性的にやるのがもっとも安全に身を守れる。 また、目的をたっする力となる。 、 |
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11.理想的な死に方 | |
若い時は生き方を探るが 年取ると死に方を探る 幸せな死に方ができるように余生を形作っていく。 余生の仕事が「健康であること」だった。 それに加えて、どういう死に方が健康にプラスした幸せを実現できるようにする。 最後は祈りだと思っているが みんなが幸せにという祈りをこめて死んで行くというのは理想だが、 それをどうアートするか? |
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12,自分らしさが自信 | |
他と比較しないで、自分らしい生き方を追究するのが自信を持って生きるということ 他と比較すると、そこに正邪、善悪、有名無名 優劣 上下 強弱 短命長命 病気健康 などと 一般的な基準によって、自他を比較することで、みな機械的な 典型的な 同じような生き方をめざしてしまう。 そこに勝負や競争があり、その勝負や優劣で、自信をうしなったり、奢りや劣等感 に悩まされることになる。 だが、 自他の比較ではなく、自分の中での部分的な比較をして、自分らしさを追求するのが、自信である。 この自分らしさこそ、奇跡力である。 自分という存在は時空を超えて、一瞬の耀きの奇跡であり、その自分らしさとは奇跡な自分を表現することでもある。 つまり、 自分らしさとは自信であり、奇跡力なのである。 神仏や権力やは他との比較から生まれるので、優劣や上下意識が働くので戦争と競争の絶えないものとなる。 戦争のない平和の意識は自分らしさであり、自信ある生き方であり、奇跡力が発揮できる命力である。 平和で幸せな生き方をするには、自他との比較をせず、自分の中の部分的な比較をして自分らしさ、奇跡を追究することである。 |
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13.自然プラス想念が現実 | |
現実は自然+想念である。 生き物には自我とその想念がある。 人間社会の現実は自然とは別の自我とその想念欲望祈りがそこに加わったものである。 もし、 自然に生きようとしたら、その想念をとりさった状態にもどしてみることである。 無とか空とかいうのは、想念をリセットして、思い込みや教育や慣習や常識を自分の心から洗いだしてしまうことである。 それから、 新しい想念を形成させて、自分らしさの絵を描くようなものが、自信であり、奇跡的な生き方であり、自他と比較しない平和な生き方につながってくる。 人の想念を比較してしまうと、一般常識に照らして、善悪、正邪 美醜 優劣 上下が生じた現実が現れてしまう。 だが、そういう想念をみな自分らしさの自然との組み合わせとすれば、どんな想念でも認めることができて、そこに善悪の観念をもたないで、そのまま受け止められる。 自分らしさとは自他の比較ができない状態であり、生き方でもある。 また、 自分らしさを追求すると、他の他人らしさをそのまま受け入れて けして競ったり、争ったりしないで、平和に ともに生きられ、ともに死なない現実を創り出すことができる。 |
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14.我満と努力 | |
我満しない自由を努力といい 努力せず自然に任すのを我慢という どちらも 力まない自然で自由な行為をいうのである。 |
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15.考え方が生き方 | |
個々人はみな考えが違う。 それがその人の個性であり、またその考え方を自他が認めることで自他の自由が得られる 人の数だけ神がいるように、 個人の考えがあるだけ個々人の自然な想念の自由が認められる。 自分らしさは自分の考えに現れ、自分の生き方になってくる。 どんな考えであっても、それはその個々人の自由であり、尊重されてこその、正常な自然社会が保たてる。 個々人の考えを誘導したり、強制したり、するような社会は病巣であろう。 常に自他の戦争をよぎなくさせられてしまうからである。 |
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16.解っていることをやる | |
ダイエットの方法を解っているのにやらない、先延ばし、再チャレンジ 、できない言い訳を自分にしてしまう そう腹を空いてないし、我慢できるほどの空腹感、欲望 を そのたった一度の食べるか食べないかの判断で 何か月、何年、一生逃げ回る、それが依存症 リバウンド 肥満 病気 心の病で、 自分に嘘の嘘のうわのりを一生していくのである。 そこで思い出したのが、禁煙を成功させたコツだが 一本煙草吸うのも、100万本、一千万本数のも同じことだ。 病気から健康な体に換えることができるたった一本を吸わなければ実現できる。 なぜなら、 煙草のニコチンがさらにニコチンを欲しがるからだ。 一本のニコチンが残っていなければ、さらにニコチンを欲しがる望みは消えていくからである。 いま プーチンの戦争判断ミスも同じで、自分の判断ミスをプーチンは知っているが、 その戦争を終結できる方法も知っている。だが、それができるのに、空しい嘘の嘘を創り上げては戦争を拡大させてしまっている。 まさに、依存症やダイエットリバウンドと同じである。 知っていることをやるだけなのだが、できることをやるだけ、できることをできないと嘘つかないこと 実に本人にとっては簡単な決断であるが、それが他の野心や屁理屈や情念でその決断ができないと言い訳している。 多くの人が この 解ったことをやること 出来るのに、出来ないと言い訳し、先延ばし、 自分でどうしようもなくなる病気になるまで逃げ回る。 小難をもって大難を制す これは自分で解っていることの 簡単に出来ることをすぐ行うこと、先延ばしやできないと言い訳しないことである。 一回の健康への判断を即行い(忍努)、けして先延ばししない、 常に気付いたことをするすること、解っていることをすぐに実行すること 出来ることを出来ないと嘘をつかないことである。 |
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17,言葉を定義すると | |
未来は未知、過去は知 現在は未知への挑戦 テレビやビデオをみると疲れるが 仕事をすると疲れないことを発見した やはり、 自分の身になるか、 世間に流されるかで 大きな差ができる 国は妄想、 峠の国盗り綱引き合戦のように ウクライナとロシアの領土盗り戦争は互いの友好の祭りとなる 国よりも命 色々な国あれど地球も命も一つ 国の愛よりも命の愛 150年後は 妄想より起きた殺し合いは、 真実より生まれた楽しい命の祭りになっていくだろう |
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18. 言葉による問題解決 | |
使用する言葉の定義をすることで その言葉の発展を明確化させられる 例えば 弁証法による問題解決策を見出せる。 他人を強要や詐欺することを犯罪とし、自分を強要や詐欺をすることを病気とする。 他人の自由を奪う最も重い犯罪は殺人であり、自分の自由を奪う最も重い病気は自殺である。 相反する言葉を用いて相反合させるには、 相反する言葉の次元の一つ奥のベースの次元からの相反する言葉を定義すれば その次元の相反合ができ、その相反合した一つ上の次元の言葉が創造また、訂正される。 努め励め、忍んで耐えて 生きるという次元は 行為する、行為しないの行為不行為の相反する(別な)方向は 社会(自分を含めた)を健全化させる方向性は同じである。 社会の健全化させる方法は自分を健康化させる方法と同じ解決策がある 他人の自由を奪う犯罪問題解決は自分の自由を奪う病気の治療方になりえ、 また逆に自分の病気治療方は社会の犯罪防止法にもなりえる。 、 |
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19,防衛のための攻撃妄想 | |
自分の責任を他人の責任に転化 する社会心理病状がある。 これは ロシアがウクライナを非ナチス化する名目でウクライナに進攻攻撃することもそうである。 自国を防衛するために、先取防衛として攻撃することも、他に責任転嫁する妄想行政である。 自他また敵味方を等しくした意識からの等々力から真の防衛政策ができる。 他人また社会依存や格差社会、強制恐怖政治は 権力による暴走行為・詐欺・洗脳・強制は、フェイクニュースや自作自演し、プロパガンダする行為は 自分の悪意の正当化、正義の悪党化をさせて、殺人行為を正義化また、より殺人行為を英雄化させる。 人の等々力は 人を殺さずその殺意を砕き、と殺傷武器を使えないようにする方法を実施することができる。 例えば、 殺意と殺りく武器による行為を防ぐには、 その殺傷行為の地点を宇宙から検知し、 そこに小さく沢山のドローンで、その地点に、 動物の外敵から守る方法のような糞尿悪臭液をまいて殺意を砕き、 武器がサビて使えないようなサビ剤(塩水)を播いたり、 麻酔針を兵士にさせて、武器を奪い、服や持ち物を奪いさって 殺人行為ができないようにする。 |
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20.ダイエット法 | |
一日の食事量を一食((流動食・甘味飲料塩分のある汁ものを含む)にすると 体重と体内脂肪は減り、 二食にすると体重と体内脂肪はキープされ。 三食にすると肥満またリバウンドになる。 なお、 食事((流動食・甘味飲料塩分のある汁ものを含む)内容は炭水化物・脂肪・タンパク質・ビタミンミネラル・繊維質などバランスよく接種すること。 運動は消化吸収、新陳代謝、内臓筋肉の柔軟と強化、免疫力増加に効果あり、 運動しないと、筋肉内臓が硬化し機能不全する病気になり、 運動しすぎると、怪我や血液・リンパ液の急激な流れになり、突然死につながる病気になる。 少々の運動が、血液リンパ液神経の流れが快くなり、筋肉が柔軟、内臓や強くなり、病魔にたいする免疫力がます。 運動はバランスよく(音楽や絵画のように芸術的な)全身運動と、頭脳思索活動であることが必要である。 |
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21.次世代への提案 | |
貨幣の在り方、会社の人を育てる仕組み 教育法 平和な国際社会造り 健康な日々 いままで学んだことを元にして、次世代への提案をして、余生を去っていこう 娘たちがやっと 経済的から精神的に自分がやりたいことをやる勇気がもてた第二の自立する時期がやってきた。 そうなると、 経済的自立では親の援助やらを離れさせたが、 精神的自立では、「自分らしく生きる」「一生涯の生きがい」を求める方向にシフトしだした。 これだと、 親は縁の下の力として、裏方の刺激剤として、応援できることになる。 それは どんな生きがいも、自分らしさも、 自分の意志や意識から起き上がらないとできないからである。 他からはけして与えられない。 人の自由はここから生まれる。 |
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⇒まとめ |