生まれ変わる準備

 1.冬ごもりのごとく 
 
余生の数年間は赤子として生まれ変わる準備として暮らすことにしよう
死は新たな旅立ちでもある。
きちんと今生を整理し、明生の準備を万端にしたい
 
2.どんな問題も自分で解決できる 
   
どんな問題も帰納すれば自分の生死の問題になる。
そのため、
現実の自分の問題は自分の生死をどうするか?
という決断をするだけである。
しかも、
生と死、どちらも選択しても、
生きることは死ぬことであり、
死ぬこともまた生きるということである。
それ故に、
生きるか死ぬかの決断ではなく、
どう生きるか?
どう死ぬか?
それを自分で描き出すことである。
その描き出す時空間の命模様の問題に帰納演繹できてくる。
つまり、
今現実の問題を煮詰めれば、
今自分はどう生きるか(どう死ぬか)というリセットされた問題に行き着くことになる。


これが、
他人を信じることにも繋がってくる。
他人の問題をその他人自身で問題解決できるということ、
しかも、その他人でしか、その問題を解決できないということ、
それを信じてあげることが、
その人を自由にし、友として、一緒に生き死にできるということである。

自信をもって生きることは、
他人を信じて生きることとつながっている。

ともに生き楽しむには、
その人の自信を信じてあげることから始まる
自由は自信からうまれ、他の自由はその他の自信を促すことから始まる。


 3.足袋作りから学ぶ 
  足袋を美しく強く縫いやすい馴染むようにするには
パートの一つ一つを表裏合わせた袋縫いするとそれが可能になることに気付いた。
伝統的な足袋はみな一つ一つを袋縫いしていた理由がわかった。
パートを合わせるときに、表同士を合わせ縫うと、裏には縫い代が醜くまた皮膚感が不快になる。
袋縫い同士を縫い合わせると、表裏どちらも綺麗に仕上がり、その接着力も擦り切れにも強くなるし、
縫い代も5ミリ以内に治められ、端糸もほつれない。

ここから、
足袋のパーツ一つ一つを自我の表裏(生死)と想定すると、
個人があつまって一つの目的への共同作業をするときの、基本的姿勢が見えてきた。

個々人がその命の表裏である生死がたとえひっくりかえっても、美しく、個々人の集まりの目的機能に美しく働き、過ごしやすい社会を築くことができる。

暮らしやすい社会とは、個々人が自由で表裏どちらもうつくしく、ひっくりかえっても十分機能する社会であるということである。社会もまた、洋服をうらがえしても使えるような袋縫いのようにすれば、政権の表裏がひっくりかえってもうまく機能する。


個々人が社会を形成するように、パーツ一つ一つが足袋を作り出す。
個人もパーツも、社会と生産品と同じ表裏生死をもつ、大小の姿に過ぎないことがわかる。

宇宙が原子と似ているように、大小、表裏、美醜のような相対的なものはそれぞれが同じような大小、表裏、美醜などの相対的なものをもっているということである。

エネルギー保存の法則が、魂の不滅にもつながってくるのもそうであろう。

数学が社会構造を支える技術力になっているが、
その数学の不可思議さ、美しさは、社会の現象を表すともいえる。
社会にとってプラス(得点)は
例えば掛け算で
プラス5×プラス5=プラス25である。
社会にとってマイナス(損点)は
マイナス5×マイナス5=プラス25である。
個人の働きがプラス5またマイナス5であっても、
ともにかけ合わせれば同じプラス25になる。

だが、
強大な企業の収益力がプラス1億であっても、
そこで働く個人が減収力マイナス1となってかけ合わせれば
マイナス1億になり、その企業は倒産に追い込まれる。
小さなゴシップがその大企業の信用力をおとし、顧客がはなれ倒産してしまうという現象は古今東西起きている。

一方、
弱小な企業の減収力がマイナス1億であっても、
そこに新入社員の減収力1がかけあわされば、
増収力1億に転じることができるという、ダメ人間の奇跡も古今東西の現象におきている。

個人と社会、目的と手段、大小、表と裏、損得、強弱、長短など相対的な物事は大きな違いあれば、本質的には同じ命の生死の矛盾不可思議であろう。

弱肉強食である一方に、
小さな虫やウイルスが大きな動物を仕留めることができるのも現実である。
これは、
小さなモノが束になれば、大きなモノをやっつけられるということであるが、
この原理が働くには、
英雄のような大きリーダーが弱い市民を先導して勝つというのではなく、
弱い市民の1人が他の弱い市民とともに行動することで大きな敵に勝つのであろう。
このマイナス欠けるマイナスの数学現象をきちんと把握しないと、
マイナス1億×英雄プラス1であれば、マイナス1億となってなにも変わらない。
ところが、
英雄伝説はスーパーマンがいて初めて革命が起きると思い込まされて、英雄の人物に心身奪われて強権政治がなされてしまうという繰り返しが古今東西にある。

とはいえ、数学がこの世も現象をすべて解析できるというものでもない。
学問の一部が数学であるように、現象の一部でしか数学が通じないということもある。

例えば、
我々の先祖の人数が86億人になるには、両親2の33累乗すればよく、
子を産む平均年齢25歳と計算しても、とあわせても、825年前の先祖人数になる。
その数学を現象訂正するには数学でない別な法律を作る必要がある。
長男のみの子孫関係のみ先祖とみなすとすれば、天皇家の1000年の先祖家系図一人が描けるが、数学的にも血縁にも、適応されない。
また、
実際には、子が産まれない先祖もあり、現実の命の現象には数学的計算はほとんど無力であるともいえる。
織田信長3000人で今川義元2万人を倒してしまうことだってある。


数学が適応できる世界はほんの一部の命の世界の片面くらいであろう。
そのため、数学は刺激的な参考にしても、当てにはできないとみた方がより正確であろう。

その他の科学などの学問でもそうだが、
命の分野においては、科学はほんの一部の事実の集まりにすぎず、無限に続く真実の姿には程遠いと思った方がより現実的である。
特に、科学的であるから信用するというのはもっとも胡散臭いものだとした方がより現実的な判断であろう。

命のない物体の世界においては、科学的また数学的な現象にはより正確度が増し、信用度も命の学問よりはるかに高くなる。

なぜなら、科学も数学も、仮定から出発し、新たな仮定を作り出すことだからである。
この最初の仮定が正確な事実だという思い込みであることもあり、宗教において、その神を本物と想定また信じて出発する迷信にもなりかねないように、科学も人を正しいと思いこます宗教技術ともいえそうである。

科学的事実また実験だからとして、命の処方に強制したりすることはできないし、自分の命の処方に参考にさせて、自分で確かめるデータくらいが関の山にした方がより確かな選択であろう。




 
4.伝統美と技を活かす 
  足袋の美・快・技のすばらしさとまた苦悩を知ると
伝統の美・快・技・慣習というものを新しい未来への美・快・技・慣習へ生まれ変わりさせる視点ができてくる。

伝統は長い経験とその苦楽から創り出されたものであり、新しきものがあったら廃れるというものでもない。
伝統の美快技が引き継がれ、新しき美快技へと変化していくことが真の伝統である。
伝統とはいわば人類がそれまで長く体験し、苦楽から生じて、訂正されて新しき美快技を作り出す基礎力になる。
それは
戦争という過ちを二度と繰り返しませんように
という過去の反省から未来を創り出す人間の生活力だからである。
伝統を守るのが伝統ではない、伝統を引き継ぎ変化させて新しき伝統を作り出すのが真の伝統力である。

古着から足袋を作ろうとなんども挑戦していると
伝統の美快技のすばらしさに気付くと同時に新しき美快技のすばらしさにも同時に感じられ、
伝統技と新技を合わせて、さらに新しき新伝統を作っていく。
これは、
個々の人間の天職にも通じてくるのである。
天職は自分の個性を最も活かす社会美快技でもある。

伝統から学ぶことは
新しくなっていく伝統こそが真の伝統のように、
何度も生まれ変わってこそ
真の個性(自分)が活かされてくるということである。



 
5.無からの出発 
  何もないところからの新たな出発こそ、
真の生まれ変わりである。
死は何もないところでの深い眠りであり、すべての魂のエネルギーの故郷に帰って充電するところである。
一生は一度だが、生まれ変わりは何度でもだ

すべての飲み物の中で一番美味しいのは水であるように、
そこに味や栄養をつけたものは、その水なくして美味しさも生まれない。
音楽でも、基本は沈黙の声である。静かさがあって初めて音楽の意味が生まれるからである。


食が美味しくなるには、
腹が空くということ、空腹であるということ、それが基本である。

人は生まれる 命を授かるところから始まるが、
その奇跡の命の基本は死と無と空からである。
いわば、真っ白いキャンパスが土台となり、そこに命の色筆で描かれる始まりである。

この無限が続く宇宙はまさに無の世界である。
その無の宇宙における命の存在は奇跡以上の出来事である。
宇宙は命を創り出すのが目的かもしれないくらい不可思議に満ちている。
逆に、
命が宇宙を創り出しているのかもしれない。
こんな摩訶不思議で、魅了される事実をどうして見過ごすのだろうか?


 
6.嘘も方便 
  最近、ロシアがウクライナに進攻した。それが世界の話題になっている。
だが、
進攻も、武力、抵抗も武力という相互の命の代償がつくという時代遅れの主張である。
この場合、
特に軍隊は昔から、上の命令に絶対服従し、命をかけて実行するのか?
民主主義が主流になっている今、絶対服従も、また、防衛としての徴兵制も、敵味方の命のやりとりはどうあがいても、時代遅れであり、国家の最も重い犯罪である。

こうした絶対服従や戦争が、自分の命を動かす最大要因が、「自分の命を守る」「自分の愛する人や国を守る」ということであるが、その守り方が古今東西武力が主流になっている。

だが、武力行使の元になるのは、「言葉・感情」であり、それらは「思い」から産まれ、その思いには、「思い込み」「信念」「思想」「理想」「欲望」「愛情」「善悪」「恨み」などがあり、それらの多くは事実誤認、妄想、考えすぎからくるものである。

こうした幻の世界に陥ると、なかなか抜け出せなくなるのも、よくあるものである。

そして、この夢幻の世界から抜け出ることも、入り込むことも、最初にあるのが、その人の意志である。

敵味方なしの友愛や自由を求める意志が双方にあるならば、戦争など起こりそうもないのだが、現実には、そう求めていても戦争になってしまうのは、戦争原因となる事実誤認 妄想からである。

事実誤認や妄想を信じてしまいやすいのも、これまた人間である。
事実誤認や妄想や過度の欲望が常に悪いというのでは、あまりに、人間らしさを否定することになる。
完璧な善人などいないものである。

そこで、人間の弱さを活かした言行が必要になる。

嘘も方便、火宅三車の譬え、怪我の功名、小難をもって大難を制す
平和や 命を救う嘘をつくことが、武力よりも効果が大きいともいえる。

なぜなら、
武力行使のもとは、理由、言葉、思い、意志へと深くつながっており、
武力行使でなく、外交という言葉であるが、その外交で決めたことも状況次第で常に守れるものでもなる、
状況にあわせて、
とにかく、殺し合うことから両者を救い出すための嘘をつくことも大事である。
病は気からというように、
戦争も気からで、
優しい嘘で、お互いの命と国を救うことがまず大切になる。
そこから、
新しい展開がまた生まれてくる。

苦しい民衆を救い出すためについたのが
神仏という嘘であろう。実際にそんな絶対的な存在はないのだが、あると信じ込ませることで、民衆に希望を与えたのだろう。

だが、
嘘は一時的に救い出すためのいわば痛みをおさえる麻酔薬のようなもので、目的をはたせば、嘘であることをあかしてこそ、本当の意味での救いがうまれる。

嘘をずっとつづけることは、嘘八百のように、増えすぎて、逆効果となり、無限の泥沼に入り込んでしまう。
嘘は嘘と明かして事の意味がある。





 
7.武力には嘘で 
  戦争において、
あまりにも、双方の命を守る戦い方を知らない
今回のウクライナ戦争が正義と悪の闘いのような構図になっている。
こうした戦争の原因は独裁者のエゴによる人の命の軽視である。
一人の命を救う戦術がもっとも善悪、正邪、強制と自由よりも、大事であり、最優先されるべきである。

独裁者のエゴは世界全体破滅においやるほどの狂気がある。
それに対する戦い方が必要である。

日本の武道でもっとも発展して、それを極めたのが合気道であろう。

合気道は試合そのものを放棄する。戦争そのものの放棄である。

そして、その武技は、けして相手の強制(武力)には逆らわず、また、従わすであり、
かつ、相手に勝つのではなく、負けないようにする。相手を制すのでもなく、従わせるのもなく、こちらと同じように自由にしてあげることである。

今回、独裁者プーチンの要求が強制的な武力でもって、
武器の放棄、中立である。

逆に英雄のゼレンスキーの要求は戦争の即停止、ウクライナからの撤退である。

合気道で、この停戦交渉をするならば、
双方の命を最優先するならば、独裁者の要求どおりにすると一時的でも、嘘をつけばよい。
いわば、
愛する人を人質にして、
「独裁者が言うとおりにしないと、殺す」と脅している状況である。

その場合、まず相手の気を落ち着かせるために、
相手が強制的に望むこと(命を奪うこと以外はすべて)を受け入れればよい。

この嘘は、
従うと見せかけて、相手の隙を狙う戦術である。

肉体は従っても、心はけして従わないのが嘘戦略である。


⇒ウクライナ戦争について
 生き抜く知力を創った
 
8.けして遅くはない 
  もう遅いなんてない
死だって終わりじゃない
死は新しき始まり

この世に終わりはない
脈と脈と命はつながってゆく

いつだって始まり
希望を持ち進め

やりなおせないことはない
命そのものがやりなおしだから

細胞が日々改まるように
一日一生、生まれ変わり
僕たちは やりなおしていく
それが生きているということ

誰も自分の死は自覚できず
他がその死を認め、勇気出す
死など思い込みにすぎず
命の流れは止まらず
点滅しながら輝きつづける

さあ、空を見上げよう
命の泉の太陽
優しく夜照らす月を

どんなときだって
やり直しするのに
遅すぎることはない
いつだって
どこだって
やりなおせるんだ

新たにまた生きよう
希望を抱きて
またやり直せ
これが
僕たちが生きているということ
 
9.死を待つ老人の家 
   生まれ変わる準備をどこから始めようか?

1.赤ん坊に生まれ変わったときの環境整備
2.過去の人生において、周りの家族学校会社行政がこうあったらいいなというアイデア
3.死後残された愛すべきとくに若者への陰ながらの応援。縁の下の力持ちのような老人だからできる若者への応援歌
4.死を待つ老人の家が介護されるのではなく、若者への応援で、
  さらに発展させて、死を待つ年齢関係なく、病人や老人が、健康な人や若者などへのメッセージや応援ソングや、経済や  知恵や助力を積極的に発信していく。
 いわば、病院、学校、介護施設、児童保護、一人親支援など、
 世間の流れとは逆の社会的弱者から強車へのいたわり助力である。
5.自分の死が他の人の生の活力になるような知られざる英雄のような生き方
10.まとめ 
   ⇒生きているということ