我の更新

1.命の更新は我の更新
   食べ物はみな更新する、
命は自他の間でみな更新する
人間も同じく細胞や組織や内臓や脳も新陳代謝する
血筋にこだわると命の本質を失う
血筋にこだわるのは我の固執による多くの問題を引き起こす
血筋に関係なく
親子は家族を築くのが自然の命の在り方だろう
人の一生は生まれた時の環境から
その方向性や生きる意義を見出し、自己形成をしつづける
命の更新は我の更新でもある
それは名も実も環境も変わるという更新である。
老人は赤子に、自分は他人に、
また食と命の姿からすれば、
人と動物や植物その他の生物との更新だってありえることである。
命は一つにつながっているからである。
2.雑務にこそ真の目的が 
   一つ一つの雑務を自分ができることを、これ以上は自分ではできないというところまできちんとやり遂げると
不思議なことが起こる
1.雑務の優先順を決めると集中力が増し処理能力が高まる
2、将来の目的ばかりみていると、雑務にいらだったり、無駄な作業のように思い、
将来の目的も、雑務にも力がはいらなくなり、無気力になりやすい。
雑務こそ、緊急に必要な目的にもっとも役立つ基礎修練になってくる
3.夜寝ているときに夢みるが、その悪夢また矛盾する夢などのようなことに対して、
きちんと現実的に対処し、問題解決することができるようになる。
(こうした夢対応処理をしているくと、現実問題に似たような問題が起きても、すぐに対処できるようになり、
夢がそうして将来起きるであろう現実への問題対処準備運動みたいになってくる
4.雑務そのものを一つ一つこなしていくと、毎日が充実し、心身の底から幸福感がにじみ出て、天国で暮らしている感じになる
5.雑務に挑む姿は小我であり、一つ一つの雑務をこなすのは小我の更新であり、
それが大我の更新(うまれかわり)に大きくつながってくるのを観じる
3.他にどう頼るか 
   我は他在りて存し、我有りて他は存する
その真実をもって
我は他にどう頼る(信じる・協力する・任せる)か、その生涯(生き方)が形成(新陳代謝)される

1960年ころ、「生まれ出する悩み」という小説が人気があった。
これは第二の生の青春(16歳から20歳まで)の心理的(特に恋愛)苦悩(葛藤・不可解・幻)を克服して
大人(18歳から24歳)として、自立(製剤的・精神的・肉体的開花期)していく1人の男性の物語である。

そのこと、4つの生として、1.肉体が生まれる 2.自我が生まれる 3.社会的自分の役割が生まれる 
4.肉体的死を通して心が再生する

これは、まさに自我の大きな変遷であり、生まれ変わりとも表現できる。

この世に、絶対的なモノはなんであれ存在しない。
その真実をもって、自他に適応するならば、

絶対的な自我(自他)は、神であり、国であれ、真善美であれ、知愛力、言葉(信念・思想・理想・天国地獄・権威)は存在しない
もし、
「絶対こうだから!」
という言葉には真実性に欠け、単に決めつけ(強制、感情、一時の思い、幻)に過ぎない
むしろ、
「ひょっとしたらこうかもしれない」
という方が真実味があり、否定や肯定ではなく、提案(アイデア・手がかり・チャレンジ)になってくる

絶対を全否定しても、絶対的考え方になり、それも真実存在しない

「絶対違うから(そんなこと在るわけない・そんなの夢か幻)」
という人や意見を全否定することは、
真実を見失う言行である。
「なんかおかしいな(疑問が残る・なんか不自然・不可解・自分で調べないと解らない)」
という部分否定の方が真実への道が開ける

我は絶対的でなく、一過性(相対的なもの、完璧でなく、自他がよりそうもの)であり、ジグソーパズル社会の一パズルとして存在している。
「自分の役割(できること、運命、仕事、援助、生活、生き方、生涯)を自覚して、生まれ変わっていく(チャレンジ・新陳代謝・新生)姿の方が真実により近くなるだろう

子供のとき、老人の今でも、自分の心はそう変わっていないことに気付く、
知識や経験は増えても、子供のような童心は老人になってもというよりも老人になっていくほど強く感じられる

まさに、赤ん坊に帰っていくような老境なのである。
第4の生、肉体的死はまさに再生(甦り)であることを自覚させていく老人の思いである。

これは
人類の歴史にも言えて、
3000年前の人類の心と現在もそう変わっていないことに気が付く。
どんなに戦争平和、社会、文化、文明、人種、宗教、政治、科学、知識、言葉などが変わっても(進歩退化しても)
人の心(喜怒哀楽)は変わらないと思える。

地球の国や地域で起きるすべては、3000年前の人類の生活経験(成功失敗チャレンジ)をしたことを繰り返している。
それは人類の心は
どんなに時代と社会(国際)と暮らしが変わろうと、その喜怒哀楽する内容はそう変わらないともいえそうである。

そのことが真実であれば、
今後3000年後の人類の心もそう大して変わらない心(喜怒哀楽)をもつだろう。
そこから、
現在満71歳の残りの人生3年(自分の家系がほとんど75歳で死んでいる)で、3000年分生きた経験を得られる気分にもなれる。
一日が3年の経験(チャレンジ・知恵・役割)の自我形成にもなりえて、それが真実味を帯びてきたようにも思える。

人は一日で一生分の経験をした気分にもなることがあるのは、まさにその一日が生死すれすれの状態で生き抜いたということでもある。

実際、そういう生死を切りぬける、また愛する人の生死をとおして、その後の人生の目標も、生き方も、変わることがあるように、一日一生(一日が80年分)、残りの人生一日で3年分の仕事(生活経験)もできるといっても過言ではないように思える。

それは人の心が時空間(時代と世界)がどんなに変わろうと、ほとんど変わらない命の有り様だからなのだろう。

人類の変わらぬ心があらゆる時代と社会と世界を創って(維持破壊保持)いくのだろう。
4、70億人分の1の我を出す 
  我は他あっての存在ゆえに、
我の使用(出し方)も他の我の出し方(使用)に合わせるのが最も効果的な人間コミュニケーションズであろう。
なにをやるにしても、自分の我(意見・感情・意思・生涯)を
現在の我が持ち主70億人いる中での70億人分の1の我を出してこそ
最も人間として最高最大の効果的(健康的)な平和共存できるマナーであろう。
世界統一とか、そういうのは最悪な我の出し方であろうし、それが独裁としての、自滅型生涯になろう。
それは自爆テロとも同じである。
小さな親切
小さな願い
小さな事柄
小さな欲求
小さな思い
小さな行為にこそ、
自我がもっとも機能しやすく平和的喜怒哀楽の人生を満喫できるということだろう。
 
5.雑事はハプニング 
  旅でもテレビロケでも、予定された行動するだけでは面白みに欠ける
予想外のハプニングがあってこそ、リアルだし、その対策をどうするかということの方が
記憶にのこり、また、感動と、知恵と経験と 人間関係と、真実が露呈する。
つまり
雑事は人生最大の予想外のハプニングであり、真実露見の兆しであり、それを逃したり、逃げたり、雑に扱ったりすると
人生の宝、生きている感動と幸せを失ってしまうし、目的までも行き詰ってしまうと思える。
 
6.脇道散策万歳 
  ついこの間まで、自分の予定通りに進まない時には
予定のない急な興味や出来事の雑務が出てきた時である。
そして、いらだったり、叫んだり、不安定な気持ちになる
集中している最中に、別なことに時間をとられてしまうからだ、

だが、
老境になり、
そうして予定した一日を思い通りに過ごすことより、
ふと、気付いたこと、前から疑問に思っていたことをすぐ確かめてみたくなる。
いわば
散歩予定にない、
突然の脇道散策に夢中になってしまい、
まったく予定通りに進まず、脇道の散策の面白さと、充実感に満たされることの方が
より予定していない道を夢中になっていることの方が大切だってことに気付かされる。

そして、
ひと、気付いたこと、ふと、疑問に思ったことをすぐにやってみることが
チャンスなんだ。

ハプニングは良かれは奇跡だが、悪かれは災害であるが、どちらも、
自分のうまれかわりのチャンスであり、刺激であり、知恵の泉であり、感動の元気である。

予定した目的よりも、ハプニングで起きた目的の方がより自分の真の目的のようなきがするゆえに、
気付きと疑問、奇跡と災害は次に生き抜き、生まれ変わるチャンスである。

旅の愉しさは脇道散策にあるようだ、

 
7.死に急ぐなかれ 
  死に急ぎ苦しゅう生きるより
死するまでゆるり生きて楽しまはれ!

人も人類も、目的は死・絶滅は命の定め
死、絶滅へと急いで悩み生きるより
死・絶滅するまでゆっくりと生きて楽しもうではないか!

創造・維持・破壊は命の波姿、
美しく創造すれば、美しく維持でき、美しく破壊でき
また美しく創造できる、桜が咲き散る姿のように

欲望・愛・知そのもの全部が悪いのではなく

少しの欲望、細やかな愛、小さな知が善い人を形作る。
多すぎる欲望、太すぎる愛、大きすぎる知が悪い結果を生み出す
ということだ。

目的に幸せがあるのではなく、
その目的までの過程に幸せがある

目的が死、それまでの過程が生であるから、

目的は自ら定めた通過点であって、
その過程に苦楽があり、苦しみがあってこそ楽しみも産まれ、
楽しみあっての苦しみも産まれる
苦楽をじっくり味わうことを幸せをかみしめるといえるだろう。

 
8.人為災害も自然災害として 
  もし、敵が自国を占領しようとしたら
どう防衛するか? それが防衛の基本である。
この問題をややこしくするのは
正当防衛として、もし敵が自分を殺そうとしたら、その敵を殺して自分を守ることは正当である。
この正当防衛は法律の基本となって、


「目には目を、歯には歯を」というハンムラビ法典の意図することは

「報復を正当化する」と誤解されているが、その意図することは。
「ある一定の罪を犯した者には、それに対応した罰しか与えてはならない」という意味であり
報復の無限連鎖を禁しすることだった。

後誤解され悲しい事例として
「医者が手術中、または術後に相手を死なせた場合、その医者の手を切り落とすこと」とあり、
この法原則に従った場合、医者などは治療に失敗した時に裁かれる危険性があり、
事実として、アレクサンドロス3世はヘファイスティオンが病死した際、
治療に当たった医者を、この原則にのっとって磔の刑にしている


後のイエスキリストいわく「
「目には目を、歯には歯をと命じられたのを、あなたがたは聞いている。
しかしわたしはあなたがたに言う、悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい」

同害報復を禁じ、
悪をもって悪に報いることをせず、
善をもって悪に報いることを説いている。

しかし、
後のキリスト教信仰国は教祖のキリストの教えに従わす
十字軍のように、他宗教の他国を占領支配戦争としている。
現在のキリスト教国でも、共産主義国でも、イスラム教国でも、
報復が外交の基本となっており、無限報復連鎖による虐殺非道がまかりとおっている

こうした
人為報復災害を最も効果的なのが
日本の合気道であろう。

合気道開祖の植芝盛平いわく
合気とは敵を破る術ではなく世界と和合する道であり、
森羅万象の活動と調和することが合気道の極意である
「合気は愛である」

合気道は日本武道から発展した
試合をせず、自分から攻撃もせず、他から攻撃を受けた場合のみの武道である。
まさに、
日本国憲法9条にあてはまる
参考1
不戦条約(パリ不戦条約)
1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ国、フランス、イタリア王国、大日本帝国などの当時の列強諸国をはじめとする15ヵ国が署名し、最終的にはソビエト連邦など63か国が批准した。

「第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。

第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。」

フランス国民は、征服の目的をもって、いかなる戦争をも行うことを放棄し、またいかなる国民の自由に対しても決して武力を行使しない。
— 1791年 フランス憲法

いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危くする虞のあるものについては、その当事者は、まず第一に、交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は地域的取極の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければならない。
— 国際連合憲章第33条 (1945年6月)

1946 イタリア共和国憲法
イタリアは、他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する(以下略)
— イタリア憲法第11条

1949 西ドイツ憲法
諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。
— ドイツ基本法第26条第1項

芦田均によれば日本国憲法第9条第1項は不戦条約第1条の文言をモデルにアメリカにより作成されたとする


第二章 戦争の放棄
第九条 
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

戦争の放棄は武の試合をしないことである。

武の試合せず、その試合のための道具ももたないで、
他から攻撃を受けた場合、戦わない別な手段をもって治める
という意味である。

その戦わない手段が合気(世界の和合・自然の調和・人の愛)であり、それをもって平和解決する道をいう。

この合気道をあらゆる人為災害に対しての防災に適応するならば、
どんな人為災害も、自然の調和災害として接して、その防災にあたるとなる。

例えば、
敵が日本を核ミサイルで襲ってきた場合、
地震や火山台風のような大自然災害に対する防災として対処準備することである。

地震や火山や台風を人間の力では止めることはできないとして、
報復も、また正当防衛も、ゲリラ活動もしないで、どうやって自分たちの命を守ったらいいかが防災の基本になる
その場から逃げるか、逃げられない場合に備えて、安全な場と水食糧を貯蓄しておく
さらに、
敵に支配された場合、自国の通信対処法を準備することになろう。

けして他国と争わない自衛隊として自国民を守ることを優先して行い、準備することである。


 
9.なぜ闘いが好きなのか 
 
自他の闘いが、戦争や試合そしていろいろな競争ゲームなど人は好んでいるのはなぜか?
自由と平等と愛と平和を目指すならば、闘いや競争やゲームを論理的には好まないはずである。

防衛の基本が戦争放棄ならば、
合気道のように、武道試合はしないし、禁止する法ができる。
第一次大戦後に、不戦条約ができたのに、それに従わず、さらにひどい第二次世界大戦が起きている。
その戦争の悲惨さを経験しながらも、未だに世界の各地で大小の戦争が繰り返されている。

オリンピックが平和のためのゲームだというが、
実際は、いろいろな面での戦争を各国行い、楽しんでいる。
他より勝つというのが闘いの面白さで、自分が応援する人が勝つ法に加担して楽しむが、
負けると愕然とする。

この平和を求めて戦争を好むという矛盾は本能的なもののような気がする。

よく考えてみれば、

新の平和は自己の中の闘いであり、自他の戦いではないと言えそうだ。

自分というのものが常に生まれ変わる新陳代謝にあるから、
この新陳代謝する力が自己の生死の戦いとも言い換えることもできる。

自己の新陳代謝は命の本質であるから、当然本能的に好きで夢中になる。

よく、
各種競技で、世界一になると、最後は自分自身の更新記録への挑戦へと進んでいく。
まさに、自他の戦いから自己の闘いへとシフトするのである。
それが本質的な闘いであり、自他の戦いはその学習ではないだろうか?!
そう考えれば、
自他の戦いと自己の闘いによる平和な命の姿とつながってくる。




 
10.雑事こそ真の目的があり 
  雑事をしてても、雑事のざつじまたその雑事ができるけれど
そうした脇道にそれた一つ一つの雑事に集中し、丁寧にこなしていくと、
うまくいかないことがむしろ楽しくなり、より集中してチャレンジするようになる
いらだつのは、目的が別にあると思い込んでしまうために、今やっている雑事がはかどらなかったり、失敗ばかりしているときに起こる。
でも、そうした雑事の雑事にこそ、真の目的があり、また、目的を達成することより、その過程にこそ、意義があることを悟るとものごとがうまくいっても、いかなくても、その苦楽を喜ぶことができ、幸せがにじみでてくる。
このことに、気付くのに、
なんと71年の歳月生きて初めてえられた幸福への道だった
時間にあせることが、もっともいらだちの原因であり、
時間に限りはないが、自分で勝手に時間の限りを付けて右往左往してしまうという
いわば、犬が自分の尻尾をおいかけて唸り、ぐるぐるまわるようなものと同じ幻の世界にいるときにそうなる。


雑事は目的にゆくまでの手段であり、その手段が小目的になる。
いわば、
機械を組み立てる大目的があれば、その部品はその手段の中目的であり、その組み立てネジは小目的であり、
その手段の労働・生活・知恵(生きる力)が真の目的(大中小目的を超えた)は雑務である。

だからこそ、
雑務を丁寧にしっかりと納得いくまで仕上げることが、
生きる充実感と幸福感を与えてくれる。

遠くの青い鳥(大中小目的)をあせったり、無理したり、渇望したりすると、
自分の家にいる幸せの青い鳥を逃してしまうのである。


 
11,自由・平等・友愛の意味するところ 
  「自由、平等、友愛」(じゆう、びょうどう、ゆうあい。
フランス語: Liberté, Égalité, Fraternité «リベルテ、エガリテ、フラテルニテ» 

友愛は日本では博愛と訳されているが、Fraternité は友愛または同胞愛の方が近い意味である。
博愛は慈善と同じ差別的意味ある。上から目線であり、権力ある人が権力のない人に向かっての行為もくしは心であるからだ。
この自由平等友愛は
自他の間の平等関係であって、
自由と他由、一人愛と多愛、それらが平等に接することが国・社会にとって最も重要になるということである。

これらは、
自他の関係において究極的には
自殺と他殺は平等であり、
他殺は自分が殺されると同じ意味になり、他由も自由も奪うことになり、それはまた多愛他愛自愛も失うということでもある。

それはどんな理由があるにせよ、
命の生死が基本であり、自由平等友愛は命なくして産まれないからである。

他人の1人と多数人の違いは、他人は基本的に自分一人に対してであるから1人の他人である。多愛は他人の数をいうのではなく、自他の繋がり広さをいうのである。人間の人と人の間の繋がりを指す。

それ故に
自他1人ずつの自由・平等・愛が重要であり、
その自他の繋がりをどこまで広げるかは
家族、グループ、組織、社会、国、国際における
自由他由の繋がり、自他関係の横のつながり、自他愛の繋がりがどこまで広がるかという意味になる。

12.今に生きるとは 
  目的は未来にあり、その目的に向かう手段は今にある。
それゆえに、
今に生きるということは、
目的に生きる、目的を重要視することではなく、
手段としての今を真の目的として最も重要視、最大価値があるとする。

人の未来はどうあがいても死である、
だが、人の今は、生きているということであり、死はまだ迎えていないということである。

生きるということは生きることそのものを真の目的にすることである。
生きる以上も、生きる以下にも目的をもたない。

今生きている自由と平等と愛が最も大きな権利であり、最大の価値と真の目的に当たる。


 
13.科学的見解と社会的法 
  今回のコロナ騒動でも また、風力発電の出力データの違いでも
それで使われるデーターが意図的に改ざんされたか、また、実験方法が実際にはありえないものなのか
まったく、同じ材料であっても、その調理法によって味も、量も、見かけも大きく違ってくる。
そのように、科学も、まったく同じ事実から、組み立てられた理論や製品は大きく違ってくる。
さらに、
社会的判断(法)もまた、一つの事実からどんな組み立て、どんな理論、どんな欲望、どんな社会的圧力かによって、逆にもなりえる。それが社会的混乱を招く原因でもある。


14.痛みを体験しないと生きる幸せを味わえぬ 
  原発をクリーンエネルギーとするEUの方針に
日本の歴代の首相が反対声明をだした。

原発事故と、核被害に遭わないと、その悲惨さ怖さが頭の理解だけでは本当に安全なエネルギーを創り出すことはできない。

私の10代の精神病の地獄のような悪夢に悩まされた経験を知らないと
大学で習った精神科の医者のような人は、習ったことをそのまま患者に適応させるだけでしかなく、
習ったことが本当の原因と治療法だとは100%言えないし、科学そのものもそうだが、
本当の原因と治療法をさぐる途中段階にすぎない。
そこに正解と誤りが両方存在していることを認識して、つねに科学的に原因と治療法を探求し、学ぶことなしに、
医者を続けたり、教えたりすることは病人を増やして生活費を稼ぐようなものになってしまう。

学ぶということは究極的には死の痛みを体験し、生の幸せを知ることである。

戦争でも、戦争の悲惨さと残酷さを体験、反省し、学ばないと、安易に武力また経済戦争を起こしてしまう。

71歳の余生を暮らしているが、
これは、もう来るだろう死に対して、どう学ぶか?
ということでもある。
自分の死は体験できぬが、親や友人や知人などの他人の死は実感できる。
そうした他人の死を学び、
いずれくる自分の死に対して、どう対処するかを探求することができる。

そこから学び探求できるのは、
命あるものの死は、次に新しき生へとつながっていることだ、

毎年雑草が芽を出し、繁茂し、枯れる。
そんな雑草の命と人間の命は本質的に同じ命の姿である。

植物が種や根を残し、寒い冬を越して春を迎えめを出すように、
人もまた、平均80余年ごとに、生まれ変わると理解できる。

ならば、71歳の余生はまさに
0歳として生まれ変わる赤子への冬ごもり、準備だといえるだろう。

命は単独では存在できない。
命をつなぐには、食べるという行為それは生死の移り変わり、
生まれ変わるりの体験ともいえて、その行為なしには不可能だからである

命は本質的に生死の二本の糸がより合わさってできた布地と服装みたいなものである。
15.他人への依存度が秘訣 
  自分の死は自分では知ることはできず、
他人のみ自分の死を知ることができる。

人は心身の両面をもっており、
身体は自分一人であり、
心は他人との関わりである。
他人は一人ではなく多数である。

自分の身心は他人(一人また多数)への依存度によって健康度も決まってくる。
健康度が一番高いのが、
自他が1;1であり、半分である。自は一人他は多数であっても、その依存度は50%が健康度ベストだといえる。

自立というのは、自分100%他人0%という意味で使われるが、それは不可能であり、病的異常度が高く、単に夢や幻の世界へと意識が向かってしまう。

自立と自由は同じ次元の構造であり、
自由なときは、健康度ベストであり、他人依存度50%である。

身心のバランスとは、自分の身体1に対して、他人への依存度の心1がベストだということである。
16.逆も真なり 
  生と死が命の構造であることからもいえるが
人が知るということは相対論によってであるということだ。
もし、
それが正しいとするならば、その逆の、それは間違いであることも認められる
そういう断定されている考えが真とするならば、その逆の考えも真である。

数学や論理学において、逆は必ずしも真ならずということがあるが、
命の問題・学問においては、生死の相対論を基礎にしているために、
生と死は相対しているために、生も真であり、逆の死もまた真なりとなり、
それが演繹発展して創造された真と思われる思想は、常に逆の思想もまた同じく真となる。
解りやすい例は、戦争におけると敵味方の相対論である。
その敵は敵から観れば味方であり、味方からみれば敵である。

命ある人間にとって、絶対的な断定はけしてできないということであり、
どんな思想信条も、柔軟な態度で臨むのが、健全な生活であろう。

聖書箇所:マタイによる福音書5章1~12a節
1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。


このイエスの言葉はまさに逆も真なりという命の生死構造の真の演繹である。

実際、
お金を持っていると、なんでもお金で解決してしまいやすく、また、お金の詐欺にあったり、お金のいろいろな問題にあってしまう。
だが、
お金をもっていないと、お金で解決しようとする意志がなくなり、今あるもので解決しようとする。
例えば、
いつも使っている家電が壊れたとしたら、それを自分なんとか修理してまた使えるようにする。
すると、故障の原因も、修理も、お金なしに、今自分が持っている知識や道具や材料で可能になることも多い。
その修理の幸せはお金がない、あっても、使わないで得られる。
しかも、修理技術も身に着くので、またその家電が壊れても治せるようになるし、
他人が捨てたその家電ゴミも治して使えるようになる楽しみもまたうまれる。

お金をもっていても、お金で解決しない選択はケチといわれるが、そのケチは目的が金集めだからであろう。
金集めが目的でなく、お金ではできない解決策を楽しむ目的を持つ者がイエスの貧しき者は幸いなるかなである。

戦争でも、武力でなんでも解決しようとするよりも、武力なしに解決する方法を探すのもそうである。
柔和で、平和な人は幸いなるかなという言葉も真になる。

世間の常識もまた真である。

いろいろな問題をお金で解決する法や礼の簡単な解決策は実に便利であるし、その楽しみも幸せも得られる。

命の選択が究極的に「死か 生か それが問題だ」となり、
それは命に観関する問題は
けして、一つの選択肢だけではないということである。
選択肢は一つしか見えなくても、必ずその逆の選択肢もあるということ。

目的の大小にも命の構造が適応できる

大きな目的達成の喜びと、小さな目的の達成の喜びは同じ質と量をもっている。
これは
オリンピックで金メダルをとった歓びと、運動会で一等賞をもらった歓びは同じ幸せをもたらすということである。

また、
有名無名にもいえる。

数百万の賞賛も、一人の賞賛も、同じ幸せをもたらす。
それは
命の大小、多少はないからだ。

多数決がつねに正しいとはならないように、

他人は多数あっても、自分は一人である。
命は常に一つであるということ、命の数の多少などない。

身心の障害があっても、なくても、命そのものには障害があるわけではないので、
無関係である。

神のような人も、悪魔のような人も
命の構造からすれば同じ人の姿であり、その本質的な差はない。

多くの命を救ったり、奪ったりするのも、
一人の命を救ったり、奪ったりするのも
どんな状況であれ、
命の構造と真実からみれば、同じ人間であり、その差などみじんも無いことが解る

一人の赤子が二人の男女の両親から生まれることは必然である。
ならば、
今現在の世界人口70億人の先祖は何世代前になるだろうか?
子供の産む平均年齢を25歳として計算してみよう。
2の累乗が70億であるので、
2の33乗は86億人である。

33代前は、平均出産年齢25歳×33代=825年前
逆の33代後も真なりであるから、
子孫も33代目の825年後には86億人になる。

今の70億人が同じ先祖をもっている家族であるともいえるが、
それ以外に、
血筋を重要視した思想や政策もまた無意味にもなってくる。

命の構造本質的には、自分の命は一つであり、
それをつなぐのは他人の命の一つである。

命の多少、血縁、大小、人種、宗教、民族、国籍は無い。

いろいろな問題があっても、
その原因と対処法を探るには、命の構造と本質まで帰納して、それを演繹していけば解決できる。

命の長短も無関係であると判断できる。
早死も長生きも、命の構造本質には同じ命一つである。
どちらがいい悪いというものでもない。

これは時間に費やし方にもいえる。
一つの目的達成までの時間の長短は大事ではなく、
その目的達成にための過程に幸せを感じられるかどうかが大事であると。

アマゾンのプライム会員で、家族会員だと送料無料になり、家族全員が月500円はいらなくてもよくなる。
だが、
無料のビデオや音楽もとなると、家族会員の無料がない。
有料会員だと、どうしても、その分だけの特典を得ようとして、無料ビデオをたくさん観ようとする。
だが、
無料ビデオをみると、無制限のWi-Fiのスピード(三日で30ギガ)が極端に遅くなるので、他の仕事に支障をきたす。
無料のテレビでも、そうした映画は録画で観られる。録画したものをみるだけでも時間が費やされる。

自分のやりたいこと、自分がより満足できることをやる時間がそうしたより満足できない時間に押されてしまい、
命の炎が冷え込んでしまう。

つまり、
金も時間も、自分が本当にやりたいこと、費やしたいことに使うようにもっていくのが、
身心の健康を養うことができることである。

自分の金と時間を他人の金儲けに翻弄されないようにした方がより平穏で幸せな暮らしができる。


 
17.原因と結果の因縁 
   原因と結果は手段と目的と同じ階層になっている
その結果は原因となり、その原因は結果となり、その結果は原因となりていくように
起因は命の生死になり、終果は現実の生活になる。

今のデジタル化への大きな変化に対応し、思想、信条、習慣。社会構造を変換していかないと
時代遅れによる問題が次々に発生する。
と同時に、時代を先読みした思い込みからも、人々の変化が付いていかないと、それも社会問題化する

人類の歴史において、
今が最も大きく変革している
思想、習慣、社会 国際など

この変革に合わせたこれからの3000年の基本的生活仕事社会の思想を
余生でモデル実験しながら、構築してみたい。

自分の世界の中だけの生死の循環生活モデルをまずは創ってみることだろう。

それだけで、余生の仕事は生まれ変わる準備完成になっていく。

18.結果から原因を決めつける危険性 
  恋愛至上主義には注意が必要だ
恋愛は自他から産まれる心である。
その自他は常に新陳代謝して生まれ変わっている。
どちらも永遠に変わらぬ自他ではないからだ。
恋愛至上主義は絶対的な個性を信じて生じる思想また信条であるともいえる。
この世あの世にも、絶対的な個性という存在は神仏と同じく皆無である。
そういう現実からなる恋愛において、
もっとも重要になるのが、自他の一瞬一瞬のやりとりである。
よく、
結果から判断して、
もしこうすればこんな結果にはならなかったと後悔したりする場合、
その結果が自分で行為が原因と決めつけることになる。
だが、どんな結果にせよ、その人の結果はその人自身に原因がある。
それは常に自己の命は自分自身で新陳代謝しており、他人がその人のきっかけとなることがあっても、原因とはなりえないからである。

こうした結果をみて判断してしまう間違いを防止するには、
自他のやりとりの一瞬一瞬に自分のできることを精一杯やりつづけることである。
そうすれば、
自他がどんな結果になろうとも、自他がどんなきっかけになろうとも、
後悔することなしに、反省して、学びとして次に進めることができる。

それは
結果がよい結果になり、
自分のしたことがよいきっかけになったかもしれないともいえる。
それは
良い結果悪い結果に限らず、その人が原因になるのであり、
そのときに、自他において、精一杯自分のできることをしていれば、
どちらの結果になろうとも、
後悔ではなく、学びとして、次の生き方の力になるだろう。


 
19.まとめ 
   ⇒自我の更新