食をもって命を制す

1,ダイエットに終わりはない 
   ダイエットは悟りと同じように、
悟りに終わりはなく、悟りに向かって進み続けるだけである。

矛盾は時を止めると生まれ
時を動かすと矛盾は消え、繰り返す

極楽浄土は一時であって
そこから離れることなしに極楽浄土に再び行くことはできない
快不快は繰り返すようなものである。
それは食をとるように、繰り返してはじめて、満腹は生まれ続けるからである
2.命の基本的事実から 
   科学は細かく分類されて、特殊範囲内だけの学問になっているので、
総合的に根本原因を見つけだすには不向きである。
 科学だけでなく、宗教や経済や芸術もみな狭い世界での見解となっており、
戦争の仕方とか、武器の在り方 防衛の方法などのように、
根本的開発、また議論の方向性が限られてしまう。

そこで、
宗教・科学・哲学・芸術・経済などを総合的、全体的かつ根本的に解決策や方向性をさぐる学問があってもよい。
それは
人間の命そのものの本質と事実と真実を探るもので、
その中で、古今東西の人類が否定できない事実だけを基本にして、それを演繹したり、
宗教科学政治経済芸術においての各分野で平行線のような動きで、解決策がみえない状態のときに、
この命の学問が必要になると思われる。

それは
病気の原因を探るときに、
各分野では不明だった病気が、総合的にみると、本当の原因が解るようなものである。

宗教では解決できない問題も、命の学問からの視点で判断すると、武力闘争が間違いだとわかるようなものである。

多芸は無芸だということも確かであるが、
一芸だけでは突破できない内容も、
多芸をもって、突破できる内容もあると思える。
多芸もまた一芸に通する
といえよう。

それぞれの専門分野にはうといことも、
全体を眺める専門というのも必要であり、かつ学問になるだろう。

 
3.何を伝えるかよりどう伝えるかが大事 
   多くの問題を起こす原因の代表として戦争がある。
それは敵味方同じ平和目的のために、戦争を始めてしまうというものだ。」
また、日常でよくある喧嘩にも観られる
話す内容よりも、話し方が問題になって、話すことさえもできなくなってしまうことも多い。

これは
人類の目的は一つなのに、その目的実現において、争い喜怒哀楽するのが現実であるということ。
それは自分の存在が生まれ死ぬという一時的であり、かつ途上にあり、
どんな生涯かよりも、どう生きたかが重要になるようなものである。

悟りを求めていき、
あるとき、悟りの正体に気が付いた友人がいた。
悟りは先にあるのではなく、すでにみな悟っていると!
それは
真実はそこにないのでなく、すでにそこにある。
逃げも隠れもしていないのが真実であり、それに気が付くか付かないかだけであると!

この悟りという真実はいわば人類が求める共通の目的である。
それが人類が地球・宇宙に永遠に生き続けたいという欲求であるが、それが自然また真実の姿にはならない。
自然・真実の姿は、永遠に生き続ける人類にはなく、一瞬のきらめきのように、耀き消えていく姿であろう。
花火や桜の花のような存在だと悟っている故に、永遠という目的ではなく、
一瞬の耀きである目的に向かう途上である自己の生き方に真実・自然が存在している。

人に伝える、その目的とその方法という世界にも、適応しており、
伝える内容よりも、伝え方を優先する方がより、真実自然に近くなるということでもある。

何を伝えるかよりも、それをどう伝えるかを大事にすることが、苦を乗り越えて楽に至る自然な穏やかな道であろう。

4.できるできないじゃあない 
  出来る出来ないじゃあない
ただそこへ向かうだけなんだ

信じる信じないというわけではない
ただそこに向かって進むだけなんだよ

そう
結果が問題というのではない
その目的に向かうという行為・行程が問題なんだ。
その行程の問題は結果がどうなるかというような悩むような問題ではない
どう進むか、どういう道を進むか、HOW TO であり、悩むのではなく、
創り上げる・創造する・構成していく・手順を作成する 
いわば、
行程づくり、システム造りであり、
仕事みたいなものである。

失敗すれば訂正し、
成功すれば、次に進めるというような
コツコツと基礎固めしていくようなものである。

成功が幸せをもたらすというものではない。
成功に向かって進みゆく行為・心情・意志そのものが
身心の底から湧き出る幸せの泉なのである。

だから、
その結果が失敗であっても、
その失敗が次の工程への訂正行程ということになり、
それが苦しみではなく、次の工程への旅経つ喜びへとなっていく。

味で苦味というのは、美味しさの秘密の一つであるように、

5.夢はアイデア玉手箱 
   病気になると、寝て夢をみて体を治す。
夢にはどんな規制もないので、自由な発想ができて、次の展開や訂正するところを発見させてくれる
他人の死が多くの大事なことを教えてくれるように、
自分の夢はいわば自分の死である。
死ぬとは眠り夢を観ることであり、次の生まれ変わりをさせるものである。
夢は芸術の基本になる。
どんな現実や自然でないファンタジーが生まれてくるからである。
寝ること、夢をみること、死ぬこと、それは生きて活動するためには欠かせない食事と同じく重要なことである。
だからこそ、
人は食べるためだけに生きるのではないといえる。
それは夢をみるために死ぬるという意味で、命の本質をいっているわけである。
芸術や宗教はみな夢の産物である。
だから、夢は信じるためのものではなく、夢はあたらしく生まれ変わるためのアイデアと時間と楽しみを与えてくれうのである。
生き物はみな夢をみるのはそのためである。
6.面倒くさい・ねばならないをしたいに 
  手段や自由に生きる本質があるので
自分の心に「面倒くさい」と思えたら、危険信号である。
その面倒くさいを「早くやりたい」という心に変化させるのが
一日の充実感を生み出す。

物事の進歩を「便利さ」に求める兆候にあるが、
便利さは、「早く結果を得たい」という危険が潜み、
大事な「面倒くさい行為」を毛嫌いする傾向を生み出すというリスクをともなう。
便利さは面倒くささから生まれた手段であるので、
便利さがより自由により楽しさの充実感を保持させるのは
「面倒くささ」を大事にすることが必要で、
子が親を大事に、親が子を大事にするようなものである。

同じことが言えるのが、
「ねばならない」という自制・不自由と、「したい」という欲望・自由である。

自分の心に、自分を制する「こうしなければならない」と思ったら、危険信号である。
それを「はやくこうしたい」心に変化させることが生きる充実感と楽しさを生み出す。

「自分はこうしたい」とは自由さである。「自分はこうせねばならない」とは不自由さである
不自由もは自由な行動あって生まれたものである。
だからこそ、不自由さは自由の元になる行為である。
自由が楽しく享受できるためには、不自由さがなければできなかった。
自由は欲望の頂点にあり、その目的には限りがない。
限りという不自由さがないと、自由は自由の楽しさを得られず、苦痛になってしまう。

自由が他の人の自由を脅かすように、暴走してしまうと、
「おごれる者は久しからず」のように、自由を逆走してしまい極端な不自由さに転落してしまう危険がともなる。
夫婦がうまくいくには、
お互いが自由を享受するときである。
それは自他の不自由さを自由に変えていくことがコツになる。
愛という心は、不自由を自由な心にかえる働きがあり、そこに生きる本質がある。
愛する者のために、あえて、自分が不自由になる選択をし、それを自由の愉しさにしていくのである。

病気は自由な欲望の暴走から生まれる。
健康は不自由な行為を自由な行為へと変化させるところにうまれる。

病気を治して健康に戻すためには、不自由さを自由にもっていく行為ともいえるからである。

生きることは自由の極致であり、
死ぬことは不自由の極致である。

健康な死は
「死にたくない」から「自然に死んで行きたい」という心に変化させることにある。

自他の殺す・死を強制するまたは、自他を強制的に生かす行為は、病気社会を生み出していく。
それを
自他を自由に自然に生き死にさせるようにするのが健康社会を維持、生み出すものであろう。

人の欲望には限りない命の自由さの本質があり、自然な心には限りある命の自由の本質がある。
自分の欲望を自然な心に変化させるのが健康的生き方であろう。


 
7.問題が未来を築く 
  問題は欲求から生まれ。欲求が満たされないときに問題が生じる
欲求は常に未来へと志向する故にその生涯となる壁である問題を打破しようとする。
欲求と問題は生死のように、物事の裏表である。 
欲求があるから問題が生じ、問題があるから欲求が生じる

今の大学生は自分が何をやりたいかが解らない
自分の欲求がみな満たされているために、問題が生じない。
それ故、
問題がないのが問題になっている。
もし、
その大学生がある問題をかかえているなら、
それを解決しようとする欲求が生まれ、やりたいことが決まってくる。

欲求には、
生きたいとは逆に死にたいがある。
どちらも、命の裏表からくる欲求である。
ただ、
生死の欲望をもつ命は自分だけで形成も、また活力も生まれない
自他の関係が深く影響する。
自他がうまく共存できないときに、問題が生じ、そこに欲求も産まれる。
自他がうまく完璧に共存できる時空間はそう長くつづかない、
それは自他がうまく完璧に共存できるようにむかう意志が命にはそなわっているからである。
命は、けしてとどまることはなく、欲求が終わることがないように、問題がすべて解決できることはない。
未来は
やってくる問題を解決するように、築かれていく。
8.問題解決には 
  二つの方法がある
問題が欲求を造り、欲求が問題を造るのであるから、
欲求を変えることで、問題の解決が二つに絞られる
一つは、欲求の意志・目的を変えずに その方法を変える方法である。
急がば回れ、押してダメなら引いてみなというように、逆転の発想のような方法をかえてみることである

もう一つは、欲求の意志・目的を変えることである。
ピンチはチャンス、怪我の光明のように、
意志・目的を変えてしまえば、その欲求も問題も消えてしまうからである。

なぜなら
欲求と問題は目的と方法で成り立っているからである。
その欲求の目的(意志)と方法(やり方)を変えれば問題は消えて解決することになる。



 
9.及ばざるは過ぎたるより勝れり 
  健康の第一は飲食にあり
ここから、今年2022年を築いている。

その食には
食べ過ぎによる病気の問題が今の日本の社会問題としてつきまとう

孔子の
「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は
食べ過ぎは食べ足りずと同じく、体に良くない
という中庸と丁度いい適度を推奨している。

だが、
これは論語の論理のような理想論になってしまいがりである。

むしろ、
戦国時代の最後に勝った徳川家康の訓示の方が現実的である

「及ばざるは過ぎたるより優れり」
食べ過ぎよりは食べ足りずの方がより健康的である

   徳川家康の遺訓

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり
   
論語
孔子と弟子の子貢の会話

「過猶不及」


子貢問、師与商也孰賢

(子貢は、「師と商ではどちらが優れているか」と聞きました。)

子曰、師也過、商也不及

(孔子は「師はやりすぎであるが、商は控えめすぎる」と答えました。)

曰、然則師愈

(「ということは、師の方が優れているのですか」と聞きました。)

子曰、過猶不及

(孔子は「やりすぎるのは、控えますぎるのと同じようなものでどっちもどっちだ」と答えました。)

注:「師」も「商」も孔子の弟子

   実際問題
自分の胃袋の丁度いい飲食量をさぐっていると
考えすぎて、食べ過ぎ飲み過ぎになってしまうのが常道である
だが、
まだ少々物足りないと感じて、飲食をそれ以上控えるときが
一番体調をよく維持できる経験で知ることもできるが、
それを丁度いいという目安を自分勝手に決めてしまうと、病気になってしまう、

腹八分目は少々物足りないのが一番健康的な飲食量とした方がより優れた知恵になる。

能ある鷹は爪を隠すというように、
食べ物や他人に、敬意をもって行うと、
謙遜する方がより好意的になり、人間関係がスムーズになる。

悟った人よりも、悟れない人の方がより好感がもて、ともに一体感や平等観がでてくる。


物事を理詰めで処理しようとする西洋的文化では
過ぎたるは猶及ばざるが如し
の英文が
Too much is as bad as too little.

だが、
理詰めの科学的考え方だと
大は小を兼ね、欲は豊かさを産む

the greater embraces the less; better too big than too small
The greater will serve for the lesser.
The greater does not always serve for the lesser.

金はあればあるほどいい

The more I have money, the better
The more money, the better
食べ物はあればあるほどいい
The more food the better.


これが現代世界の病巣になっている
むしろ
理詰めよりも、人(心)詰めの方がより現実的に健康な社会になりそうだ

金力、武力、法力という権力もそうだろう。

金足りず、武弱し、法あてにならずくらいが
健全社会を維持できそうに思える。

10.真に愛するということ 
   愛が常に良いことを起こすというのは妄信であろう。
良いことも、悪いことも、予想外のこともなんでも起こしているように思える
愛が暴走して、相手を殺りくしてしまうことは古今東西あることだから。
それに、
どうして
愛が相思相愛になることが難しく、片思いや三角関係になりやすいのか?
愛による問題は無限に広がっていくのはどうしてか?
愛は逆の憎にもひっくり返ることさえある。
人間の心のすべての代表でもあり、また欲望をそのまま言い換えたのが愛とも言えそうだ。

この愛の変貌や形ばかりとらわれていると、その本当の姿をみることができない。
精神の病の幻聴・幻覚・妄想に陥ってしまうのも、愛に翻弄されてしまうからであろう。

そこで、
愛を引き起こす源泉に目を向けると、
愛する相手の意志・意思・意識がどこにあるかが最も重要になる。

犬が自分の尻尾を追いかけてぐるぐる回るように、
自分の意識を相手の意識と間違えて追い求めてしまうことが多いのがこの愛である。
相手を観ているのではなく、相手が鏡であることを知らずに、自分の姿をみてしまいやすいのも恋愛である。

相手の意識や意向が相手の言葉だけにとらわれていると、その言葉が相手の本心であるかどうかを見失ってしまう、
言葉には嘘も誠もともにあるからだ。
また、相手の行動も、それが相手の本心による行為かどうかも、それが慣習・洗脳・服従・強制によるものかもしれないことも考慮して、相手の本心を知ることが重要になる。

とはいえ、
自分の本心さえも、わからない場合も多いので、まして他人が自分の本心を見抜けるかどうかも難しいことである。

そこで、
相手の本心を「こうだ」と断定することが「勘違い」「妄想」錯覚に陥りやすので、
むしろ相手の本心は「解らない」「不知」「不悟」ということを前提に愛をとらえていくのがより真実に近くなる。
まさに、
真に愛することは、真実探求と同じく、一生涯かけても、それが叶うことはないけれど、
本心をさぐる旅にこそ、愛する一歩一歩の心かもしれない。
具体的な行為に一つ一つの、相手の本心をさがす楽しみが真に愛するといえる行為にいくらか近くなるのだろう。
だが、それが相手のすべてを知ることは不可能であるが、生涯かけて、自分を探すように、相手を探すようにすることだろう。
もっとも、
注意すべきは相手の心を断定するという言行であり、お互いに傷つけあってしまうことになる。


11Keep health yourself
  Do it yourselfとして、なんでも挑戦してきた。
特に、家を自分で造ることは最も大きな喜びになった。
それができるようになったら、
自分の病気の治療も、健康維持も、自分でやることが
さらに、日々の歓びを増すことであるように思えた、
それはやたら医者に頼ることなく、自分の免疫力で自分の健康を守るような行為に思えた。
業者や医者に頼らず、
自分の衣食住だけでなく、学問・健康までも自分で創り上げていくことに大きな喜びがあり、
すぐ他人やプロに頼ることなく、自分でできることをやることで、自分の人生は自分で描いていくようにできていく。
もちろん、
自分一人では自給自足の難しさと同じく、不可能に近いのだが、
自立心が他との人間関係や健全な社会には必須に思えるので、
自分の命と健康は自分で守れるように、できるだけのことをするのが大事だと思えるのである。
それが
しいては、自他の関係や、社会の協力関係をさらにスムーズに軽快にしていくことができるように思える、
 
12.自立心・他立心・自他協力心 
   真に愛するということが、真実追及であるように、
自分の意志がもっとも大事なように、他人の意志ももっとも大事になる。
そこから、
自分でできることをやって、できないことを他人に助けてもらう。
そういう関係こそ、自他がうまく機能する社会力の基本になるだろう。

Do it Yourself.は衣食住だけでなく、健康も、護身も、教育、学問も、芸術も、
それがどんな知識・技術・ハンディ―があろうとも、
自分ができる最大限の努力をしていき、あとは他の力を借りるということが最も
自他ともに生きて楽しい人生社会が築けるように思える。
13.どうして忘れるのか?  
  意識や気が先に突っ張り過ぎると
今の意識がうすくなり、今の状況を把握できなくなり、
今するべきことを忘れてしまう。

今一つ一つを具体的に丁寧にしっかりとやりこなし、終了を確認してから次に進むのが
忘れ物や失敗をしないコツであろう。

 
14.まとめ