第二の誕生


1.自分の意見を持つということ

中学1年生になって
同級生がハッキリと自分の意見を述べる姿に驚愕した。
(なんで? 自分の意見を持てることができるんだ?)
それまでは
どんな知識であれ、意見であれ、それは先生や親が言うことが正しいことであり、その知識を学ぶことが学習だと思っていたからだ。
自分の考えを持つというのは、そうした先生や親の知識に対して 是非また別な意見(知識)をいうことである。
つまり、自分の意見を持つことは 先生や親や社会の知識をみな学んだ後に、自分の経験と知識の検証と、知識の推論をしなければ、それはできないと思えたからだ。

教師が生徒に
「君の意見は?」
と聞くようなものだ・
それは
先生の意見に対しての是非、また別な意見を出すということだ。
知識の試験があり、それが正しいか誤りしかないのに、試験そのものの是非を問うているのである。

そして
その自分の意見を持つということは
自我を持つということでもある。

自我を持つということは
他人とは違うだけでなく、他人との上下関係、主従関係がなく、
平等の関係であるということを前提また、互いに認めることである。

だが、当時、そんな深く物事を考えることはなく、

どうしたら 自分の意見を持つことができるか?

これを考え続けた。

まず、
口下手で無口であった自分の改造を始めた。

自分の考えを持つということの前に
自分で考えることが必要であり、
自分の考えをまとめるにはそれをすぐ表現しなくてはならない。
これがまずできないかった。

そこで、
自分の頭に浮かぶ言葉を口にすぐ出す訓練を始めた。

そして、
人から何か語りかけられたときに、浮かんだ言葉を恥ずかしがらずに そのまま話すようにしていった。
無口な人にとって、
この訓練は非常に難しく、
会話がはずむ中で、その会話の内容についての連想が浮かんだときには、
もう話は別に進んでおり、それを言う機会がなくなる。
その繰り返しで、
無口の性格は治らないのである。

ともあれ、
会話に入ることは苦手であっても、
せめて、自分の頭に浮かぶことを口に出すにはどうしたらいいか?

私は国語と音楽の成績が常に悪かった。
努力して獲得できる漢字とか音楽の歴史というのは成績がいいのだが、
文章の読解力とか、音程やリズムをつかむ力にうとく、特殊な才能が必要に思えた。
歌を歌わせると、音痴で、つねになんども居残りさせられたが できなかったのである。

塾の教師が

「国語の成績をよくするには、日記を書くのが一番効果がある」

と教えてくれた。

(どうして、日記を書くことが国語の成績をよくするのか? 
よくわからなかったが、先生のいうことだから本当なんだろうと思い、
その日の夜から日記をつけることにした。
だが、毎日 何をしたということしか書けなかった。
毎日同じことをしていたので、毎日同じく、
「今日は学校にいき、家に帰り、食事しました。」
それくらいしか、書けなかった。

自分の考えができることとは程遠い内容だった。
だから、
毎日の出来事は毎日同じの日記はつまらなく、続ける気持ちがなくなった。
そこで、
自分の頭に浮かぶ言葉をすぐに日記帳に書くことにした。
こういう日記だと、
日記を書きながら、自分の考え浮かぶ内容がまとめやすくなってきた。

だが、それは心に浮かぶ内容をただ書き留めるだけであり、現実とは程遠く
何をしたいか? そういう欲求を配列するだけだった。
恋をしていたが、それを書き留めることは恥ずかしく日記には書かないようにしていた。
でも、
大体、恋する内容の方が多いので、それをすぐ書き留めることが多くなる。
一方、学校の受験教育方針に疑問をもつようになっていった。

2.どうして勉強するの?


試験をどうしてするのか?
どうして勉強するのか?
その答えがだれもきちんと明確に教えてくれる人がいなかった。

中学3年の時
国語の教科書に
ロマンローラン著の『ジャンクリストフ』という長編小説の一文が掲載されていた。
幼年期に作曲家になっていたジャンクリストフは放浪の叔父のゴッドフリートが家に泊まりにくる。
その夕べに、近く流れるライン川の支流のような小川の岸辺で、二人並んで自然が奏でる音楽に聞きほれていた。

自分が作曲できることに誇らしげだった8歳のジャンは母の兄のゴッドフリートに突然聞かれた。

「どうして作曲する必要があるんだい?
 この自然にすでに素敵な音楽があるじゃあないか!」

 まるで、自分が作曲することが無駄であるかもようにいうのに腹をたて

「偉くなるためだよ!」
苦笑いするゴッドフリートはすかさず
「どうして偉くなる必要があるんだい?」

音楽家の父からピアノ演奏と作曲のスパルタ教育を受けており、
それを否定され、大好きな叔父の意見にすっかり混乱してしまったが
結局、叔父は行商するみすぼらしく、可哀そうで、かなりおかしな人だということにしてしまった。

だが、そのゴッドフリートの意見は

中三の受験戦争の真っただ中にいた私にとって

「どうして勉強なんかする必要があるんだい?」
と、受験も勉強も、学校教育そのものも否定する意見と共鳴して、
驚き、その長編小説を受験勉強とは別に無我夢中で読み込んでいった。

とくに、
夢中になったのはジャンクリストフの恋人との遊戯の場面である。
少年少女のたわいのないキスも そういう経験のない中3の私には強烈な想像力をうかばせ
まさに官能小説のような文面をはずかしがりも、なんどか読み、その他の文面は社会性が強くておもしろくなく、とばせて読んでいった。

結局、長編小説を全部読んでも、一番記憶に残り、考えさせれ、一生の生き方を変えさせたのは
国語の教科書に掲載されていた
ジャンクリストフとゴッドフリートの川辺の会話だけだった。
この問い?

「どうして作曲する必要があるんだい?」

まさに、
日本も、世界全体も、世界戦争が終わり、新たな生き方を再構築しだした

「自然に帰れ!」という
今の環境問題を解決しなくてはならない
「持続可能な社会づくり」への一歩だったのである。
世界は
ロマンローランの意向とは逆の経済優先の資本主義市場競争へとどんどん発展いていったのである。

そんな世界の流れに逆らう闘いが高校受験で、都立高校に2番の成績で入学しても、私は一切受験勉強や学校の勉強テストを否定し、自分で、

「なぜ勉強するのか?」
この問いを探し求めていったのである。

それは必然的に

「なぜ生きるのか?」

そういう疑問にすべての青春をかけて突き進んでいった。

3.過去を振り返り確かめる

以前、消えゆく過去を振り返ったところで何も意味がなく、
それは過去にこだわって、新しき未来を築くことに弊害があると思っていた。

だが、実際に、過去を振り返り、その事実の詳細を確かめていくと、
まったく違った過去を発見し、新しき自分をも知ってくる、
そして、確実にその新しき過去の解釈をもとに新しき未来を築くような力が生まれてくる。

とくに、
自我の発見の少年・青年期に、おける自我の成長はめまぐるしく変化している。
その一つ一つの変化を50年後、反省して、過去の自分の姿を確かめていくと、
大きく違うのは、自分の姿ではなく、
自分とかかわった家族、友人、恋する人。尊敬する人の姿である。
それは
当時は子供であった自分が、親になった自分で、当時の親の姿をみつめると、
まったく違った印象をもつのである。

親の不明な行動が、親になった今に明確になってくる。
そんな感じである。

また、青年時恋した女性が 娘と同じ年ごろの姿と冷静に比べて観察できるようになっていく。

これは、
今、娘よりも若い女性に恋心をもち、悩んだ一時期があった。
その50歳も年下の女性に恋して悩んだ原因が不明だったが、
過去の青春時の自分の恋心を検証していくと、それが
昔の過去の自分が、今のそのころの女性のような子に恋していると判断できることがでてきた。
そこで、恋の病気は治癒しだしたのである。

現在の病状が例えば
突然歯が痛くなったとき、その原因が不明で、すぐに歯医者にいって治療しようとする。
だが、それは歯医者をずっと儲けさせ、安泰させるだけで、
医者は治療をするが、二度と同じ歯の痛みがでないような方法(その原因と防止策)を教えることはないし、患者もそれを聞くことはない、
それ故に、同じ歯痛は繰り返されまたは、さらに病状は悪化していくのである。

ところが、歯痛の原因を自分でいろいろと探していくと、偶然見つかることも多い。
それは過去の自分の歯磨きの仕方が十分でなかったことが原因であると判明し、歯医者に行かなくとも、自分で容易に治療し、二度と同じ歯痛にもならず、より健康な歯にしていくことができるようになるようなものである。

自分の過去をきちんと振り返り反省確かめることができるのは自分だけである。
それが今と未来の自分形成にもっとも重要なことだと気が付かされる。

イエスが

「悔い改めよ さらば救われん」
この言葉は、

「反省し、確かめよ、さらば未来は明るく輝く」

いかに
今問題になっている自分の過去を反省することが第一にすべきか、この70歳になって知ったとは驚きである。

老人はボケるというが、
老人は過去を反省(振り返り確かめる)することで、明る(アカル)という造語をつくった。

老人は反省する!と ボケず!アカる!」

4.受験教育は役に立ったか?

私は中学三年生まで、学校や塾の教師の言うとおりに、勉強し、よい成績を残してきた。
最後は 目標だったオール5をもらった。

中学2年のときから、高校受験勉強の計画をして、そのとおりに毎日参考書を中心に
一日自宅で8時間ばかり勉強していた。
東大受験生が一日4時間というその倍の8時間である。

3時に学校から帰宅すると、まず2時間くらい寝る、そして、5時から夜中の1時まで予定の日課を
学校の予習復習、参考書の2か年計画実行である。

睡眠時間が毎日6時間と夕方と2時間と分けていた。

なぜ、そんなに勉強時間が長いかというと、
受験勉強とは例えば、西暦何年に、何の事件がおきたかということを記憶する。
英語はその単語と文法を丸暗記する。
私は物覚えが悪く、記憶させるまでなんども繰り返し覚えるがすぐに忘れるのでまた繰り返し丸暗記する。

こういう勉強をしていると、
テストには暗記した内容がでるので、それを覚えるけれど、
それをどうして暗記せずに、それを調べてみてはいけないのか?
当時、
弁護士試験では、試験中 答えが書いてある六法全書をみてもいいとなっているのをうらやましく思った、

どんなに試験のために覚えても、そのあとはすっかり忘れてしまうのなら、意味がないのではないか?

アンチョコ禁止というテスト法も疑問だったが、そういう教え方だったので素直に受け入れていた。

だが、
この丸暗記法の受験勉強とテストの方法に対して、猛反発して実行したのは高一になってからである。

暗記するより、調べることにまた考えることに意味がある。

それまで、
教えられたことはみな答えは一つであり、どんな問題も、正しいか間違いかしかないというものだ、。

だが、
どんな問題にも、答えは一つではなく、いろいろな考え方があり、正解などないということの方が信じられたのである。

学校で習ったことで
今の70歳に役にたったというのは、算数と英語と国語と科学の基礎くらいで、中学3年生までの義務教育だけで十分のように思える。
高校以上の学習は、その者がどんな職業か趣味につくかで、役に立つかどうかが決まるように思える、

また、丸暗記するテストの成績で、その生徒の才能を判断するのは間違いが多いように思える、
むしろ、生徒が自分で調べ考え、そして、興味を持つ方向にどんどん生かしていくような教育の方が社会にも役立つように思えれる、

テストだって、教科書やネット検索もオッケーにして、
その解答を自分でとけるようにする方がより社会で生き抜くための力になる、
病気して、すぐに医者になおしてもらうより、
まず、自分で治す、また病気にならぬような工夫をしていく。
その方がいわば、病気に対する免疫力になるのが、勉強だと思えるのである。

答えを人や教師や親など他人にすぐ聴いてしまうくせはなんでも他人まかせにして依存型人間に成長してしまう。
それから、10年後に、
受験教育に反省がされ、ゆとり教育という方向にかわったが、それはたんに、丸暗記する知識の数を減らしただけで、自分で調べ、考える力を養成する力になっていないように思われる。
娘がゆとり教育でそだったのをみてそう思えるのである。

5.受験戦争への反発

目標だった都立高校の合格発表はちっともおもしろくなかった。
むしろ悲しさでいっぱいだった。
それはまえもって、中学校で、その答えが出て照らし合わせたら、ほとんど正解だったので、合格間違いないことはわかっていたのもある。
だが、空しかった。
何のためにこんなに勉強して、ただ高校入学するためにやったのか?
つまらぬ努力を必死にやったことへの後悔の方が大きかった。

他人がそのときの私をみれば、不合格で悲しんでいるように見えただろう。
両親だって、合格を待ち望んでいた。
だが、合格をつけて、涙を流すくらい喜ぶ両親に、こういってあげたかった。

「まったく意味のない合格だよ。馬鹿げた努力をしたもんだ 僕は悲しいよ」

私の真の闘いは、そこから始まった、受験教育への反抗する生き方である。

新宿の学校に通うが、授業の予習や復習まして宿題などいっさいしなかった。
それをやる価値ある理由がなかったからである。
そのため、授業についていけなくなり、聞いても、解る授業がなくなってきた。
いわゆる落ちこぼれである。
そのとき、はじめて、落ちこぼれ、学校に行くのが嫌になる気持ちがわかった。
そうした受験教育は授業についていける成績優秀者だけを救い上げ、その授業についていけないものは
不良や馬鹿な生徒として、無関心になり、救い上げるような制度はない。
中間・期末テストなどあるが、そうしたテストはほとんどわからないので、そのままだすが、○×式の答えは適当にどちから選べばいいので、当たれば、点数がもらえるので、合計点数は0点になることは少ない。
ときたま、成績順位が同期で発表されるが、私より下の者が1人いた。つまり、それは〇×式の問題にも適当に答えを書かなかった生徒がいたことを想像できた。

結局、テストがある日は行っても意味がないので、休むことにした。
もちろん、テストの前の受験勉強など一切しなかった。

6年後、私は私立の大正大学になにも勉強しないで合格入学できた。
受験問題がほとんど中学三年生の問題なので、さらさらできた。
そのとき、大学 のレベルの差がこんなにあるのかと、驚きもした。

私が受験教育に反発していることは6年後も変わりがなかったのだが、
仲の良い友人のほとんどが大学に通っており、私は高卒で働いていた。
そのため、友人との話がかみあわない のである。

高校と大学とはかなり違うようで、それはひょっとしたら、好きな哲学が勉強できるかもしれないという期待がもてた。
でも、受験勉強をするつもりもなく、ただ、大学受験というものがどういうものか試してみたくなった。

合格して驚き、働いたばかりであり、大学に入学するかどうかを迷った。
そのときの決断をした理由は

「今しかできないことを選択すべきだ!」

働くことはいつでも、いくらでもできるが、
今しかできないのは大学に入ることであり、大学生活の経験である。
二度と、大学受験を試すつもりはないし、合格する運もないだろう。

高校三年間ほとんど勉強していなかったのに、大学合格できたことは
運か、または、私に天が与えてくれたチャンスかもしれないと思えた。

のち、
合格できた理由が、高校の内申書にあるのかもしれないと、
それを書いた担任に、50年後の高校クラス会があったとき、聞いたが答えてくれなかった。
その反応は何を書いたのかも忘れていたのか?
私の病気のことを書いたのか?
とにかく、悪い内容の内申書ではなかったと思われた。

一学年から二学年に進級するときに、
大学ではテストがある。私は大学に通うのは好きだったし、好きな科目の授業もあった。
そのため、授業出席日数は足りていたが、その進級テストには体が動かなり、
そのテスト勉強も、テストを受けることもできなくなっていた。

その時は、テストをする理由も理解していたのにそうだったのだ。

いわば、テストアレルギーのようになっており、テストがすべて終わり、テストを受けられなく、みな単位を落としてしまった、

そこで、私の学年担当教授に私の試験ノイローゼで、テスト勉強も、テストを受けることができなくなることを説明したら、
科目によっては、レポート提出でもよいというものだけ、単位をもらえた。

だが、それは三学年に進級するときには、そういう二次テストはなかったし、
私の試験ノイローゼは治っていなかったため、すべて単位をおとす結果になった。

三学年にはなっていて、大学というところが、好きな学問ができるところでないことを思い知らされた。
私が好きだったのは哲学であり、大正大学はインド哲学が仏教大学であるので有名であり、だからこそ、その大学を選んだ。

二年学んで痛切にわかったのは、
大学の西洋哲学はドイツ語とギリシャ語の勉強で、インド哲学はサンスクリット語の勉強が主だったことで、
哲学すること・・・つまり 物事を考える、討論する授業も、クラブも、ゼミもいっさいないことだった。

しようがないので、同じ西洋哲学科の同期に、
「おい、哲学しようぜ?」
と問いかけても、その意味を理解できる学生はいなかったし、それができる教授もいなかった。
教授はただ、歴史において著名の哲学者の思想の概略をのべるだけで、自分の哲学をもっていないただの知識提供する職業教師にすぎなかった、
それは小中高大学みな同じ自分が知っている知識提供する事務職員にすぎなかったのである。

そんな大学に嫌気がさしており、さらに、私は大学の入学金、授業料を自分のアルバイトで払っていたし、
また、大学に入った際、東京の自宅にいる兄からも逃げたかったため、埼玉の飯能にわざわざ部屋を借り、そこで、牛乳配達のバイトをしながら、通っていた。

なんとか、アパート賃はそれで払えたが、二学年目の授業料も、三学年になっても、その授業料も払えなかったのである。

ただ、
自分の働いた金で、大学に入学学んでいたため、その苦労してためたお金を無駄にしたくなかったため、大学卒業のための論文だけは書きあげ、大学生活が意味あるものにしたかった。

そのため、
大学をやめて、自分でアルバイトしながら、あとの2年間で、その論文をかきあげる方向に意を決した。

大学の事務室にいき、

「大学を退学したいのですが?」
「理由は?」
「(適当に)海外の大学に入るため」
「そうですか それはそれは
 え~と、あなたは、授業料1学年分しか払っておりませんね、

大学中退、2年にしますか、3年にしますか?」
「え?? (授業料を払うかどうかで中退する学年が決められる。単位ではないのだ)」

「そうですね、大学1学年にします」
「それでは、授業料はもう払わなくて結構です」

 大学教育がお金で売り買いされていることを実感した瞬間だった。

 私は授業料の2年分の延滞金を請求されるのを覚悟していたので、
そんな大学教育の憤懣よりも 高額の授業料を払う必要がなかったことにホッとして
むしろそういうお金で教育が買えるシステムによろこんだくらいである。

 つまり、
 私にとって、今も変わらない大学制度は学べる場ではなかったのである。

のち の50年後、
私は徳島大学での社会人としての講義を数回行うようになった。

最後の授業は、進化についてのアズワンだった。

古代麦から品種改良・遺伝子組み換え、ゲノム編集までのプレゼンを5分間行い、
あとの85分間はアズワン(昔のアイデア発想法であるブレーンストーミング)を改良して、グループ分けして、さらに大グループで進化についての意見をださせる。
しかも、教授も、私も、みな生徒と同じ立場での進化にたいする意見をいい、
その結論をださない授業であり、
私が「哲学しようよ」といった大学生時代求めた授業をやりのけた
私も学生も、教授もみな満足できた内容だった。
(それは教授がのち、学生にその授業の意見をきき、ネットでその満足度がわかった)


学園闘争の時代

私の受験戦争と精神病との闘いと日本の社会を呼応するかのように
時期を同じくして、学園闘争が有名大学で起こった。
しかも、優秀な学生が目指す東大がその闘争の主役になったのだ。

それは私の高校三年生の時の東大を目指しても、その受験は中止になったほどの事件である。

私はその2年(浪人)後に大正大学に入ったが、まだその学園闘争は続いており、その波に私は巻き込まれていた。

高校2年のはじめのころも、学園闘争があり、私が病気になる前に、その運動にのって、校長室に乗り込んだことも覚えている。

ただ、
今もその学園闘争の原因がなんであったのか?
不明であるが、その運動の多くは 革マル派というのが中心で、革命マルクス共産主義の思想を曲解して、
ただ、学校側の学生への待遇に不満の待遇改善を中心に運動されていたようであり、共産主義とはまったくちがったものであった。
ただ、社会に対する不満と憤りが噴出して、自由資本主義体制への反体制としての共産主義の名を利用したにすぎない。
それは一部テロかして、国際犯罪組織へと変貌していった。

私は新宿高校の体育館で、

「愛とは何か?」
それを学園闘争の体育館で演説したことを覚えている。

また、仏教の大正大学の講堂ではやはり学園闘争の演説で、

「仏教の慈悲心にふれ、常に穏やかにせっするのではなく、勇ましく戦うことも必要である」
というような内容だったように思う。

 それに対して、教授もその考え方に一部賛成してくれたのを覚えている。


それから50年に年月がたったが、

私の受験戦争との闘いは、当時の学生の社会体制への反発心と同じところから出ているように思う、

つまり、資本主義におけるより多く金をえるための教育体制が受験戦争として、青少年の健全な生育を妨げ阻害していったといえよう。
ただ、私は常に独りで、その受験戦争を自分ができる世界の中だけで戦ってきたが、
同じ世代の他の人はグループをくみ、学校や社会組織への反発としての暴力で立ち向かおうとしたといえよう。

私と同じように
高二のとき浦和高校から転入してきた
現在医師のひよわそうな K君は 私がいる柔道部に入部してきて、
ちょっこっと私の隣に座り、こう聞いてきた。

「岡部君、何のために生きるのかなあ?」

私はその質問を待ってましたとばかり、自分と同じ悩みを持つ人間が現れたことを大いに喜んだ。
彼は、私の世界にどんどんついてきた。

無断に旅にいくこと、 総合ヨガの本部へ、 尺八を吹くこと 


その2か月後には、私は精神病院に入院してしまうので、彼とは2か月の付き合いではあったが、
それから50年後、彼が徳島の古民家を買い、そこで「健康と自然の会」を 
徳大の総合科学のO教授とともに開き、私は3か月に一回の開催に常に出席するようになり、
それは3年で解散になったが、今も仲がよい生涯の友となっている。

高校2年のときに同じ疑問をもった二人の運命はまったく違った方向に向かった。

K医師はまさに受験体制のまっしぐらの新潟医大から 友人と病院経営までする道へ、
私は受験体制にいまもなお、闘い反発している道である。

そして、今も共感する思想をともにもっているが、その思想をもっての実現法においては違っている。
彼は死ぬまで病院経営をする道だが、私はさっさと引退して、畑仕事を趣味として生きている。

K君は柔道部をすぐにやめたので、彼は私に会うために転校してきたような運命的な出逢いだと
今も続く友情にその縁の不思議さがあるように思える。

新宿校のクラス会でも、私は1年半しかいなかったのに、なぜか、みな私のことを覚えており、親密になりやすい。

それは
私の受験体制の教育への反発はすごく、

教師がクラスに入ってくると、

「起立!礼!」をするが、私は坊主頭にしており、一番前の席で、めをつぶってけして起立も礼もしなかった。
もちろん、
教師が退室するときもである。
テストをするときも、
ただ私は何もせず、そのまま名前だけを書いて白紙をだすか、登校しないかである。

教科書もよまず、自分が好きな本を読んでいるか、興味ある授業しか耳を傾けなかった。

唯一 倫理社会には、私の担当がホッブスだったので、それを調べてレポートを書き報告することだけが一番楽しかったことを覚えている。ただ、残念なのは、ホッブスの思想は私にはほとんど興味がもてない内容だったので、ただの取材ノートのようなもので、自分で考える必要がなかったので、それだけが不満だった。
だが、そういう倫理社会の授業方法に対してだけは受験体制とは違う新しい教育方針であるだろうことで目を輝かせていたことは確かである。



6.柔道への熱き思い

高校に入って、授業はまったく無視に、
唯一、力を入れたのは柔道クラブである。

それは狂暴な兄に勝つためには、どうしても避けられない道だったからである。
兄は極真会の空手をすでに習得している。
その空手に勝つ手段として柔道を選んだのは、同じ空手では先に3年習った兄にかなうはずはない。
武道において、空手と柔道はどちらが強いかどうか 見かけでは一瞬で拳か足で、打撃する方が強いように思える。
それぞれの武道にはルールがあり、
柔道では拳や足で、相手を打撃することは禁止であり、その反則となり、負けとなる。
だが、空手はその打撃で相手を倒すルールである。
だが、試合では実際に急所を打撃することは禁止であり、寸止めして、打撃したとしてポイント制になる。
急所以外は打撃オッケーなので、そこが腫れ上がることもある。
また、剣道のように防具をつけて 互いが怪我のないようにする。

兄との死闘は実際の喧嘩であり、そんなルールなど通用しない。
防具なども、ナイフもなんでもありの死闘である。

私が兄に勝ちたかったのは
兄の暴力を止めたかっただけであり、その命令に従いたくなかったためせあって、
兄を殺したり、怪我させたり、いじめたりすることではなかった。
自分の自由と身を守るためだった。
暴力と暴言で押さえつける兄に勝つとは自分の身を守ることと、兄を無暴力化させることだった。
それができる武道は唯一

「柔よく剛を制す」 柔道

だったのである。

実際、3年も空手を習う兄に クラブで柔道を習う前に、
三船柔道の足払いの理論を読んですぐに兄を倒した。

そして、柔道を1年習い、空手と柔道の対決をした結果、
まさに、

兄を怪我させることなく、
けさ固めで、兄の自由を抑え込み、無暴力化させた。
柔よく剛を制す
というのは、実際的理論・技術・武道であったことを証明した。

喧嘩は、個人同士であれ、国同士のであれ、生死をかけた戦争殺し合いである。
そこにルールなど存在しない。
善悪の倫理など通用しない。
生物として、生き抜くための闘いである。

新型コロナウイルスだって、進化した小さな微生物であり、人類との命をかけた喧嘩・戦争・死闘である。

ちょうどテロリストと世界組織との国際的戦争でもある。

それは善悪という倫理も、ルールもない。

いかに自分の命を守るか、そのために命を奪おうとする相手を殺してもかまわない喧嘩なのである。

そういう戦争はいちど噴出すると、怒りと憎悪が増し、復讐の連鎖が続き あっというまにその戦争は拡がっていく。

過去の2度の世界大戦のように、
新型コロナにしても、ここ3か月で世界中をパンデミックに陥れてしまう。

相手が人間でなく 新型コロナウイルスなので、 恐怖が恐怖をうみさらに増大してしまう。

世界戦争や新型コロナ戦争においても、
それに克ち抜くためには、
柔道の
「柔よく剛を制す」道・技術・知識が必要である。

新型コロナに対するワクチン開発も、
兄の狂暴さを無力化させるように、免疫力をたかめ、無力化させることである。

世界戦争の集団殺戮できる道具である核を無力化また生産できなくする。

その道筋をつけるのが柔道の真髄である。

柔道において、防具も、武器もなく、また相手を怪我させる技術もない
ただ身を守り、また、相手の暴力を無力化させる技があるだけである。

これを個人の喧嘩・社会の内紛、国際紛争・しいては 細菌戦争に対処する技術・道である。

例えば、
柔道において、防具も武器も必要のないように、戦争のための防具としての武器も、敵を怪我させたりするどんな技術も武器も必要がないということである。
一切の戦争放棄し、武器の所有も、軍隊を持つことも禁止する
日本の平和憲法がまさに柔道の精神にのっとっているのである。

柔道におけるルールは
正当防衛として相手を傷つけたり、殺したりすることは禁止しており、
それは
柔よく剛を制す 技ではないからである。

柔道は自分を殺そうとする敵の暴力を無力化させる技だからである。

では
敵が核爆弾で自分を殺そうとしたらどうするか?

その核爆弾を使う気にさせないコツは
こちらがけして敵を殺したり、怪我させたりする意志がなく、ただ自分の身を守ることだけをするということを
敵に十分知らせることで、敵の殺意また殺される恐怖をもたせないことである。

つまり、
こちらが核爆弾を持つ意志もないならば、敵も核爆弾を対抗して持つ意志もなくなるようにさせるのが
「柔よく剛を制す」 平和条約のような平和交渉が柔道ともいえる。

今年2020年の6月に新宿高校柔道部OB会があるが、そうした肉体的柔道を引退しても、柔道の核心をもって、世界の戦争にたいする柔道の道を楽しく語らえたらと願うのであるが、ほとんどは、顔合わせだけで、なつかしさだけであり、また、自分の高校時代を思い出すきっかけになってしまう。

今回は、私は新型コロナのパンデミックがあり、欠席を通知したが、
そんな柔道部OB会ができたら、世界の平和にどれだけ多く貢献できるかしれないと思う、

高校1年のとき、
早朝の合宿、晩は、近くの町道場に練習に出かけて行ったほど
柔道取得に夢中になっていた。

だが、それは高二になり、精神病院に入院するまでの1年と3か月くらいで終わることになる。
兄に柔道で勝ったことも、その柔道の習得する理由もなくなったこともある。

だが、
いまでも、柔道を練習したくて、うずうずする。一人でもできる動きをときどきしては そのうっぷんをはらしている。

だが、
柔道も合気道の型のようなものにもでき、一人で防身する健康体操のように
進化させれば十分楽しめるものになる。

残りの人生で それが工夫できたら、最高に楽しいと思う、

その願いは

「柔よく剛を制す」道をもって、世界の戦争と病気を制すことである。

柔道の武術と同時に、怪我をした場合に回復させる医術も発展した。
それが骨や筋を修復させる成道整復師というりっぱな国が認定した医学にもなっている。

つまり、
柔道の技は、国際的戦争がこじれた場合の修復する平和技法にも、
国際的パンデミックになった新型コロナウイルスの病気に対処する医術にも応用できるものである。

それは徹底した防衛、防身の技法だからである。