自信をもって生きる


1.自信をもって生きるとは 
   自分と他人は一対一の関係であり、人間としてどんな環境の違いがあっても、生きている自他の関係は平等であること。
また
他人は一人ではなく、多数であり、それぞれの他人はみな一人独りの関係が違えども、一対一としては同等であり、自他の関係を築く社会は、そのコミュニケーションで成り立っているということ。
その二つを認めて生きていくということが
自信をもって生きるということである。
2.他の強制にどう対処するか 
   社会の強制的な力に対してどう対処していくか?
また自分を愛するするが故の愛の暴力にどう対処するか?

他また社会の強い圧力がどうして生まれるか?
それはほとんどが、自分の考え方生き方と違った考え・感情・信仰・信念・理想を他また社会が押し付けようとすることから起こる。

最悪な押し付けは考え通りに動かなければ武力で殺してしまうことである。
こういう押しつけが古今東西、悲惨な状況を生み出している。

目に見える戦争だけでなく、平和な日常でもいつでも起こりえる事件であり、武力でなくとも、言葉や感情で相手を自分の思い通りに動かそうとすることが日常茶飯事である。

また、
自分自身では気付かないで、愛する故に、相手に強制してしまっていることさえある。
それ故に、自分自身が敵になってしまうことだってある。
自爆テロはまさに自分と他人を殺してしまうのは、他の宗教的政治的洗脳による命を奪うほどの強制力である。

そうした強制的な殺傷力は、すべて人の思想と信仰により起こると観察できる。
そうした思想には善悪の観念が基本にあり、何が善で何が悪であるか? それを断定し、信じて、行動するときに起きる。

こうした他の強制に対して、同じように他への強制で返すと、さらに、戦争が大きくなってしまうほどの負(強制力)のスパイラルが起こるので、最悪の処置法となる。
 正当防衛で相手を殺して自分の命を守る方法である。そうした最悪の処置は最後の最後までのやむを得ない一手として残しておくのが無難である。

では最善の対処は何か?
武道における、柔道の柔よく剛を制す また、 勝たず負けずの極意である。

他の強圧に対し、逆らわず、受け流し、また、表向きは、柔らかく受け止め、それは嘘も方便、ハイと素直に答えても、
けして、裏の自分の領域(自分の自由が許される範囲)では、けして従わずという対処である。

さらにその命令や強制が他に対する強制をさせようとする場合も古今東西日常茶飯事に起こりえることでる。
その場合の対処は、無能になりきる、バカになる、弱者になる、変人になって、能ある鷹は爪を隠す処置を施す。
相手を痛めつける力があるのに、できない振りを演ずることである。
 そして、痛めつけらた人に影で寄り添ってなぐさめる処理をする。
 表では、無能になり、裏では弱者に寄り添う

こうした他の強圧の対処は、
個々人の最低限の自由を守れるような計らいが基本になる。
さらに、
物事の善悪を断定したり押し付けたりを日頃からしないようにすることであるが、
自信をもって生きるには、
個々人の自由を守るのが小善であり、それを侵すのが小悪くらいの基本信念をもって生き抜くことであろう。

3.二度と失敗しない決意 
   もう7年もダイエットを試行錯誤しているが、何度も失敗してはまた挑戦して成功を繰り返している。
だが、そのダイエットのコツを見出してなく、体重が10キロ近くの増減を繰り返している。
自信は最初から築かれるものではない。
何度も失敗して、もう二度と失敗しないことを確信したときに、自信が生まれる。
99%の失敗から1%の成功をもって、自信がついてくる。

なんども失敗を繰り返しても、挑戦をけしてあきらめないことは自信をつけるための準備段階にすぎない。
だが、二度と同じような失敗を繰り返さないような成功を収めたときに、一歩の自信が湧いてくる。

この最後の失敗を治めるのが、「二度と失敗しない決意」であり、それが「成功=自信の原動力になる。
4.他に依存・他を強制・他と競争しない 
   「自信をもって生きる」ということは
自分を信じることを最優先することである。
信じるとはその言葉・その考え・その心・その行為を真実と認めることである。
自分自身の言葉、考え、心、行為を真実であるかどうかも解らないのに、どうして他人や他の集まりの社会や過去の他人の言葉や心、考えや行為の真実だと信じることができるだろうか?
ただ、
自分と他人との違いは、
自分の言葉・考え・心・行為を真実にするかどうかは、自分の努力次第であり、
他人の言葉。考え、心、行為を真実にするかどうかは他人の努力次第であり、
自分が他人の努力を、他人が自分の努力を刺激できても、真実にすることはできない。

そのため、
自信をもって生きるとは、
他に依存、他を強制、他と競争せずに
自分の言葉、考え、心、行為を真実になるよう努力するということである。

5,自分の死は自分で自覚できない 
   一匹の小さな野鼠が深さのあるバケツに飛び込んで逃げられないでいた。
何度も飛び上がってバケツの外に出ようとするが、できないでいた。
一体どうやって、そのバケツに入ったのかと思ったら、バケツの外には10センチほどのモノがあり、それでジャンプして入ったようである。
もし、情けでもして助けてあげれば、家の中まで侵入してくるだろう。
それはコオロギでもそうで、助けると安全だと思ってまた入ってくる。
そのため、
そのまま放っておいたら、なんどもジャンプしてたが、疲労困憊して、翌日の朝には死んでしまった。
その死に顔が安らかで幸せそうに見えた。

自分が生き抜くために精一杯何度も何度も頑張った。
そして、疲れて眠ってしまい、そのまま死んでしまったようすがわかる。

そのネズミ自身には自分が死んだことは自覚できない。
だが、生き抜くために必死に努力しつくした結果の安らぎである。

最後の死まで生き抜く努力をやり続けることの充実感と幸せはこういう生きざまにあるように思える。
生き抜く努力をけしてあきらめないで、やりつづける。

こういう生きざまは人間でも同じではないだろうか?
生き抜く努力の結果がたとえ死であっても、自分ではけして自覚できない。
結果は他人しか他覚できないのである。

つまり、自分の死は自覚できないがゆえに、生き抜く努力をする過程だけが自覚できる故に、ある意味では「どう生きているか?」という過程に永遠の生命を観じることができるともいえる。


6.自殺・他殺・状況死をけしてしない 
   自信をもって生きるとは逆にいえば
自分の死をけして信じないということでもある。
自分の死は結果であって、自分の生は過程に存在するからである。
自殺、他殺、状況死はある意味結果であって、そういう結果にこだわったり、翻弄されたり、作為してしまうことは無意味なことである。
生命がその死の結果までの過程にあると信じられることが自信をもって生き抜くということでもある。

7.過程を楽しむ 
   結果にこだわれば、あせったり、苦しんだり、結果いかんで心が左右され、翻弄された人生になる、
原因にこだわれば、失敗を悔んだり、不平等を悲しんだり、解らぬことに不安に際悩まれる。
生きること、
その原因は生まれた時の状況であり、
その結果は死んだときの状況である。
それらの原因結果を他人と比較すればコンプレックスやおごりが生まれ、その差に翻弄される。
だが、
生きること自体は生まれえる原因と死ぬ結果ではなく、その両者の過程にある。
原因と結果を求めたとしても、それrが不変の真実であるかどうかは誰にも解らない。
だが、原因と結果を求める過程は自覚することも他覚することもできる。
その求め方にそれぞれの生き様があり、自分らしさがある。他人とまったく同じになることはない。指紋のように。
その求め方のスピードがマイペースであるのが、原因結果に翻弄されないことであり、
その求めう姿が自分らしさであり、他人との比較も、原因結果に執着することもなく、
静かに楽しむことができる。この生きる過程を遊び楽しむことを自信をもって生きることであり、自分らしく生きることである。
8.理想と現実 
   理想と現実がまったく同じになることは古今東西まずない。あったとしても、一時的なものであり、すぐに遊離してしまう。
理想に合わせて現実を変えていくことが賞賛された生き方であるが、
科学における検証は
理想は仮定であり、現実が証明である、
現実が理想を訂正させることによって確かな生きる知恵をえる。

理想にあわせた現実を変化させていくことは
宗教的な信仰生活につながってくる。
理想が正しく、現実が誤りということになり、理想が真実であるならばその信仰は正しく賞賛されるが、
その理想が真実であるかどうかは不明であるならば、その信仰は正しいかどうかも、賞賛すべきかな決定しにくい。

現実が真実であるかどうかも、その現実の受け取り方によって、真実にも虚偽にもなってしまう。
そのため、理想と現実の区別さえも、難しくなるのである。

理想とはいわば自分が求める姿・結果である。
現実とはいわば自分がおかれた状況・原因である。

そのため、
現実の原因と理想の結果に翻弄されずに、自分の理想に向かって現実を変えていく過程を遊楽するのが
自分らしく生きることであり、自信をもち、マイペースで生きることでもあると言えよう。

そういう生き方は生きる目的と原因にも翻弄されなく、あせることも、不明であることにいらだつこともなく、
生きていることの過程を満喫して 急に起こるどんな雑事でも受け入れ解決していくことを遊楽できることになる。

なぜ生きるのか?
何のために生きるのか?

それが不明であり、それを求めるために生きても、その原因目的にこだわらず、永遠に求め続けることに生きる充実感が沸き起こってくる。
この永遠に求める充実感こそが自信をもって生きること、自分らしく生きることの原動力になる。

9.自信なんか無いけど 
   自分の人生を振り返れば、自信があったかどうかなんかはわからないことが多かった。
ただ、
やりたいことや、問題解決に挑むだけで、
それが叶うかどうかは やってみなければわからないし、トライしなければ自信なんか程遠い出来事にすぎない
やってみて、叶えば自信が少しつくし、
叶わなければ自信がつかないだけのことである。
やってみて、できることもあるし、できないこともある。
できたら自信がうまれ、できなかったら自信が生まれないだけのシンプルなことのように思える。
他信にしても、他信して、それをやってみたら、できたら他信がうまれ、できなかかったら、他信が消えるというだけである。

信じるということはその人の言葉を信じて行動するということである。
言葉というのは、誠も嘘もあり、その言葉だけでは確かな信頼は得られない、
その言葉が本当かどうか行動トライして確かめられたときに信用がうまれる。
つまり
言葉を信じるということは、トライと行動前のきっかけ、触発、前ふれにすぎないということである。
そして、
その前ふれを自分でトライ行動したときにだけ、自信がうまれるかどうかがわかる。
他人がトライ行動しても、けして自信なんか生まれない。まして、他信なんかけして生まれない。
他信は自分で確かめて、自信が生まれたときに、はじめて、うまれる。
つまり、自分でトライ行動して生まれた自信なくして他信なんかできないということである。
10.信じる必要はない 
   自信はやってみて成功したときに生まれる。
これが本当だったら、
もし、なんどやっても成功しなかったら、自信がなくなってしまうことになる。
やればできるという応援の言葉は一生かかってやってもできなかったら空しい言葉になる。
これは
信用していた人に裏切られることもあることにもつながってくる。
そうした自信や他信に惑わされないで生きていくには、
信じて生きない方が
 それができてもできなくとも、信じたことが本当になろうとなるまいと、関係なく生きる方が
もっとも長く安心できることにつながってくる。

自信他信の信心は結果に左右されやすい。
結果に左右されない過程に意識を集中させればもっとも安心できるはずである。

それは挑戦することに最大価値を置くことである。
死ぬまで挑戦し続けることであるが、
本人にとって、結果の死は確認できないのだから、永遠に挑戦しつづ生き続けることになる。
他人のとって自分の死は確認できるため、自他の心身の差はほとんどないので、自分の死は予測はできるため、
自分の死に合わせた挑戦を設定していくと、挑戦の節目ができて、挑戦力も増してくる。

死もまた大きな挑戦の節目であろう。
11.自然力 
   やりたいことをやるということは、
自分の欲望を実現させることである。
だが、
欲望には二種あって、
本当にやりたいことと、
他から作られたやりたさがある。

自信・他信をもって生きることは他から作られた結果を求める欲望に依存しやすい。
そのため、自信他信ぬきに、
たんたんと挑戦しつづけたいという過程の欲求には、コンプレックスも慢心もなく、人為的な計算もなく、自然な欲求、自然力と言えそうだ。

この自然な欲求の喜怒哀楽を遊楽していくことがどんなことがあっても、動揺しないで安定した生き方ができそうである。

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