真実不悟

1.思索の出発点と終点 
 
宗教は神や悟りをまず設定信じることから始まる。
だが、それらはみな事実や真実を元に作成された思想ではなく、想像・空想・理想から生まれた幻(幻覚・幻聴・妄想)に過ぎない。
それが当時の権力者や著名人の物語が何世代の伝承されたものであり、それは時代を経るごとに現実や事実とは大きくかけ離れた教義やシステムや法になってくる。

科学は事実と実験によって、主に無生物である物体の変化を元に構成演繹されてきた学問である。
だが、意識ある命ある生物の変化を物体の変化のように説明、論議されているものであり、それは狭い世界の確率的な知識ではなく、広い世界全体を知識である真実には程遠いものとなる。
そのため、科学的知識は権威ある政治や団体が人々を支配するために利用されやすくなる、
権威者にとって都合のいい科学的見解が正しいとされてしまう。

そして、狭い領域での科学的知識は「群盲象を語る」ような、それぞれの専門家が別々の科学的知識を発表するが、それらの知識は検証されずに、多数意見のような形で信じられるようになる。

そのため、現実問題を解決するときもあるが、むしろ、現実問題を複雑化、難解化させてしまい、さらに現実問題を悪化させてしまうことも多くなる。

例えば、
科学的知識で原爆を創り、戦争を大きくさせ、恐怖をあおるような現実社会ができあがってしまう。
それは科学は無生物の物体の知識には確率的に有効であるが、個々人の意識がある生物に適応が難しくなる。

そのため、
個々人がともに自由に快適に生きられる社会には宗教や科学とは別な学問が必要であろう。

それは
最初に、神や悟りや絶対的知識を設定、信じることなく、真実は終わり無く求めるものであって、
絶対的に固定した神や悟りや科学知識を設定したり、信じて行動しないことが大事である。

個々人がそれぞれ自分で真実を求めていくことから始め、他と共に真実を語り追及していくことを楽しむことが大事であろう。
 
2,自由は挑戦にあり 
  世界がどこまで広いのか、どこまで深いのか
その限界を知ることができないように、
本当の真実を知ることもできないようである。

限りなき自由はまたそれもないだろう。

だが、
世界も真実も、自由も、
その限りをつけることで把握できるし、それが思い込みであれ、小さな事実であれ、
小さな世界、小さな真実 小さな自由を観じ、知ることも可能である。

小さな世界の広さ深さ 小さな真実 小さな自由はが、無限の世界と真実と自由につながる瞬間がある。

それは広き世界、本当の真実、無限の自由へ歩みだす挑戦する瞬間である。
人の80年の障害は、宇宙年にとって、存在するかどうかほどの生涯であるが、
宇宙、命の真実、限りなく自由はそれを果敢に知ろうと挑戦することで感じられる。

終わりなき旅と挑戦こそ、真実を知ろうして、けしてあきらめず、けしてとどまらず、真実へ向かい過程にこそ、意義がみいだせる。

我々が生きた数日、数年、100年であろうと、それが真実への行程であれば、生きがいも、真に生きていることを実感することも可能になる。
3.知らないことの方が良い時もある 
 
昔告知したほうがいいか議論の的だった。
がん告知して、生きる気力を失うのを恐れるからだ。
私も母に癌の再発し、余命僅かであること告知しなかった。
母も私に自分の命がどのくらいかと医者にも私にも聞かなかった。

うちの賃借人の孤独死の後始末から、
そうなってもおかしくない兄も、孤独死して、弟の私に、遺体や相続や管理の問合せがきても、
何もしない、何の返事もしないで、無言の拒否をすることが一番よいと思えた。

だが、兄が孤独死したとして、
その遺品の中から、一つだけ知りたいことがあった。
どうして、幼年のころから、年下の弟と妹をいじめ、両親を怒鳴りまわしたのか。
それが兄が自分の部屋の火の不始末で火事になり、外に出ていく28歳までそうだったのか?
その後も、家族以外のアパートの家主に対してもそうなったのか?

その理由だけは知りたかったが、
知ったとしても、過去のいじめや迫害は変わらないし、
その後に兄と心を開き付き合えることもない。
まして、遺品からその答えを探り出すことさえも難しい。

借り人の遺品からは、離婚の理由も、借金の理由も、知ることは難しいからだ。

つまり、
知りたいと思っても、知っても何も変わらないし、変われないのなら、知らないことの方がよい。
映画の文句ではないが、
知らない方が幸せだってこともある。

我々が本当の真実を知ることができないように、知るというのは、それが本当かどうかは解らないということであり、
逆に、知ったことが、詐欺のでっち上げだってこともあると、単なる思い込みや勘違いの知ることである可能性も否定できない。

知るということには終わりがなく、さらにその奥に真実の多くが無限に広がっていくからである。

知るというのは欲望の一種である知欲から来る。
欲望には限界がないので、
健康で平和な生活を続けるには足るを知ることが大事になる。

知欲の限界を定め、自分に今必要な知欲の足るをわきまえることが大事になる。

そう判断もできる。
なんでも知っている人がなんでもできるとはけしてならない。
ただ
なんでも知っていると思い込んでいる、
また、自分は真実を悟っていると断定してしまう
そんな生き方が空しく感じることがある。

 
4.なぜ真実不悟がよいのか? 
  世の中に変るものと変わらないものがある。
けして変わらないものが真実である。
言葉による論理は裁判のように、正悪 大小 左右のように、相対的な始点から真実を追求していく。

では
不変なものが真実で、変化するのが幻だとしたら、

この宇宙と世界とその知識も変化しつづける姿をみると、変わらないものは無いとしか論理的な答えになる。
だが、
この宇宙世界が変わっていくと観察できるのは、変わらない真実の視点をベースにしているからである。

自分の命も、人類も変わり続けるがそれを支えているのは真実の命とその一種の人類である。

真実を追求して、その終わりがないことを知るのは真実はけして知ることはできないという意味である。
それは
不変の真実が我々の命と世界を動かしているということでもある。
いわば、我々人類は真実追及させられている。
また、すでに真実を持っている、知っているともいえる。
それは、我々はいずれ死ぬのに、けして死なないとして生きているようなものである。
変化する我々と真実の関係はちょうど
人間が作り出したモノと人間の関係である。
人間につくりだされたモノが人間を知ることができるだろうか?

つまり、
我々が真実追及させられ、知りえた小さな真実も変わるとしたら、
どんな人間も神仏のような人にも、真実不悟として、真実追及する方が「悟ったと勘違い」するよりは
不変の真実に近い判断になり、現実の生活の応用がしやすいことになる。

しかも
だれでもが、真実不悟であるとすれば、人々は平等な立場で楽しく生きられるようになる。
真実を知っている神仏を設定すると、その教義やその教師や組織に絶対服従してしまい、上下関係が生じるからである。


若い悟り世代と言われるように
「悟ったと勘違いして生きる」と、何をやっても面白くなくなり、無関心無気力うつ状態に陥る。

では、
変り続ける我々自身と世界はどうやって、
幻のような生きている時を過ごしたらいいのだろうか?

悟りも、知恵 も 他の欲望と同じ知欲として、
足るを知るような 小さな幸せ、 小さな知識 小さな発見 を楽しむことで、充実した人生になれるのではないか?

70歳にして、
突如ハプニングとして起こる雑用・問題を
一つ一つじっくりゆっくりと解決する時と思考とその結果を楽しむことが一番幸せを感じている。

それは若いときには、けして気が付かなかったことである。

やりたいことをやるのが幸せであると思い込んでおり、それ以外は雑事として煩わしさ ストレスでしかなかった。

今、突然の孤独死の後始末という雑事は莫大なお金も、手間も、勉強も 思索も必要になるが、それが楽しく、そこから得られる小さな真実から、こみ上げる幸福感がある。

4か月前に、突如の体のムクミと痛さで、体重が78キロになって驚き、その病気の原因追及と治療方を実験しながら、その生活をしているとそれがそれまで以上の体力と健康への道筋ができてきたことに
病気そのものへの感謝がわきおこった。
病気しなければ、健康への道筋はつかめないことがよくわかったしだいである。
それは
真実不悟として真実への道筋ができてくるということでもある。

確かに、人はいずれ死ぬ、だが、永遠に死ぬとは言い切れない真実がある。その死も、不変ではないのは明らかである。
生死の繰り返しあっても命であり、人も自分も、死という瞬間も、再生という瞬間にもなりえる小さな真実の世界を感じることができる。

要は何事も、決めつけや断定ができないというのが人間世界の小さな真実の姿でもあろう。


 
5.不測の事態に備える 
  真実不悟ということは、常に先は予測できないことが起こるということである。
そもそも、我々一生は奇跡の確率で存在している。
そうした事実から、常に不測の事態に備えておくことが肝要になる。
それが幸運の場合も、最悪の場合も、ありえるので、けして先を決めつけられないし、まして先を決めつけてもそれは真実にならない。当たるも八卦当たらぬも八卦で占いの本質でもある。

だが、
大きな物事が起きる前には予兆・前触れとして、予測していない小さな事件が起きる。 
また、自分には関係ないと思っていた遠い事件が自分にもやってくることもある。

そんな小さなまさかの事態に、常日頃からどう対処するか、自分の気持ちや思考法をきちんと準備しておくことで、
大きな不測の事態に出会ったときに、最小限の被害または被害なしに生き残れることになる。

例えば、
車の運転で、とっさにブレーキに足が動くように練習しておけば、パニックになり、体と足が硬直して、ブレーキを踏んだつもりがアクセルを踏むという大事故にならないですむようなものである。

こうした不測の事態に備えることは、病気に対しての免疫機能を発揮できるように、毎日の運動を欠かせないことである。
いわば、準備運動をしてこそ、怪我をしないように自分の体を守ることでもある。

また、現在の死亡のトップである癌に対しても備えも必要だろう。
それは主に、食事内容や量や習慣にも、注意いて置くことである。
また癌と診断された場合も どういう処置方針にするかも勉強しておくにも大事になる。

自分の人生については、他の誰も支配できないし、他の依存して任せられるものではない。
運不運ということは重要ではない、運不運があったときの自分の対処にしかたを準備しておくことが重要だということである。

真実不悟ということを前提に、自分の人生を整えていくと、
小さな真実、小さな悟りが重要になる。
不測の事態に備えることも、この小さな悟りに当たる。
6,自然な命の姿 
   来月のテーマとして、「自然な命の姿」が候補にあがった。
最近、
不測の事態として、うちのアパートの住人が孤独死になり、その対処に苦労した。
そして
命の姿について、
それぞれの人生のついて、
どう命をとられていいのか?
それが大きく心をとらえてくるようになった。

今の生活を支えているのは、4か月前に体のムクミと痛さと急激な体重の増加から腎臓機能障害に陥ったことがきっかけに、それを治そうと必死にマッサージと体操を毎日かかさずにやり、見事その病気を克服した。
でも、マッサージと体操は健康回復しても、続けており、それがより一層の体の動きの快調につながっていることを実感している。

病気しなかったら、けして、毎日マッサージと体操を中心にした健康法を実践することはなかった。
本当に病気さまさまのありがたい健康への足掛かりをつけてもらった。

健康は真実と同じく、けして、健康が永遠に続くことはないし、何が健康かなんてことも解らない。
真実追及のように、健康もまた探求していくものであることがよくわかる。

そして、病気や怪我は災害はまさに 健康への道筋を示すきっかけとして最高の活力源になることを発見した。

畑でも 害虫が 鳥の被害 また雑草など、人間にとって害になっている生き物はまさに病気と同じで、より健全な畑づくりをするきっかけ・活力源になる。

自分にとっての被害にあたる病気や害虫災害雑草もみな健康な食生活への道筋を発見するありがたい存在である。
命は食べられ食べ、殺され殺していくようなことで、繋がり合っている。
命あるもの全体として一つのシンプルな繋がりがあるようにみえる。

命は生死、無生物から生物との循環の奇跡の姿をしているように思える。
7.まず先入観を捨てる 
   真実不悟ということを出発点にすると
どんな物事の判断・思考・学問のそれまでの先入観・偏見・伝統・知識を取り払って、まっさらの状態から思考し判断していくことが大事になる。

問題解決しようとしてして、その分野の勉強をすることは先入観を持ってからということになり、その先入観の知識をどんなに発展応用してみても、その先入観の域から出られないものである。
そもそも、
今起きている問題の多くはそうした先入観。既存の知識から起こったとしても過言ではないだろう。
そうして先入観知識から浮かび出た問題を解決するには
まず、まったくのキャンパスに自分の思考を描くようにして、その問題解決に挑戦していくことである。

そうした自分の頭を空にした状態から、思考していき、既存の考え方や他人の言葉を参考またコミュニケーションしながら
自分が納得する問題解決をしていくことが望ましい。
8.生きるのに必要欲とその摂取方を知る 
   7年もダイエットに挑戦しているが、どうも安定しない。
失敗と挑戦を繰り返している日々である。
ダイエットには食事と運動は欠かせない。
運動の方はムクミの病気をしてから、毎日のマッサージと体操で安定的な体調を維持できている。
それと同じように食事による体調を安定させたいと思った。
既成のダイエット科学は妄想に満ちているので、空から思索しだした。

シンプルが考え方が浮かんだ

最近、三日で4キロばかりリバウンドした。
それが、どうやら、糖分の採り過ぎであることは明白だった。
だが、
どうして糖分を過度に接収してしまうのか?
そのメカニズムが、悪のスパイラル・依存症と同じであることに気が付いた。

糖分をとると、血糖値が上がり、膵臓からインスリンホルモンが分必され、血糖値を下げようとする
血糖値がゆっくりと上がれば、過度のインスリンがでないが、 過度にでると、
血中の糖分を脂肪に換えて体に貯め込み、体重が増加する。
血糖値の急激な増加は気持ちをイライラさせ、精神を不安定にする。
すると、脳はイライラを抑え安定させようとして、糖をさらに欲するようになる。
これが急激な糖の摂取による病的欲望のスパイラルである。

私の経験では、過度の糖分は胃酸を過剰に分泌させ、胃食道逆流症を引き起こす。
それは食べ過ぎと同じ症状を引き起こす。

どうやら、
食事と運動は似ており、
運動は一日に必要な運動量をゆっくり、無理せず、けして苦痛にならない状態にもっていくのがコツである。
それと同じように、
食事も、一日に必要な食事量(栄養量)を、ゆっくり、急激に食べたり飲んだりしないで、苦しくならないで楽しさが残る程度でやめとく。
もっともっと食べたくてイライラするのは、喫煙依存症と同じメカニズムになっている。
急激に食べたり、過度に食べたり、刺激でイライラを抑え込むスパイラムに陥らないような食事習慣をしていくことが大事であろう。

足るを知るというのは、欲望の必要最小限を知り、それで満足する生活習慣をつけるのが、もっとも健康的でかつ賢い生き方でもある。

無限に欲し続ける欲望とどう付き合うか?
それが健康平和自由の生活するキーとなる。

最小限の欲量と、ゆっくりじっくり欲叶が 快適に生き抜くコツであろう。



9.孤独死から解る個人と社会 
   孤独死した人に債権をもっている業者は一切請求もできなくなり、損失を被る
それは
その業者がその孤独死した人から収入得を得ていたことも明らかである。
つまり、
個人なくして業者も社会もないと言い切れる。
まさに
社会は個人の集まりであり、社会あっての個人ではなく、個人あっての社会であることがわかる
遺体と墓地は行政がやるがそれも孤独死がそれまで生きていてそこから収益があったからでもある。
こうした
個人と社会の繋がりでもっともおどろきは
家族と個人である。
実際に兄弟も健在、離婚したがその相手との子供も健在であるが、
数十年も連絡も交流もなかったこともあり、
遺体引き取り拒否、相続放棄 管理責任放棄して 警察からの連絡も拒否した。
それは
後始末が行政と家主が血縁者家族に代わってするということであり、
そこから
孤独死にとっての家族や社会は行政と家主ということになり、実際の血縁者家族は彼にとって最小限の社会ではなかったということでもある。
彼が生きたという証とその経歴は単に行政の元戸籍や元住民票に名前が残るだけである。
その写真も名前も、家主は処分してしまうので、数年で彼の存在は忘れ去られ、本当の意味での死を迎えることにもなる。
孤独死でなく、多くの家族に看取られたとしても、
数十年でほとんど忘れ去られてしまう。本人やその子孫が著名人であったならば、そうした記憶は数百年になるくらいである。
遅かれ早かれ、
個人は消えゆく定めであり、それが自然な姿でもある。

とはいえ、
孤独死から解ることは、
血縁者よりも、その人の衣食住を支える関係者とのつながる社会が最小単位の社会であるといえよう。
そして、家族は最少社会単位の一部とはなっても、全部にはならないということも解る。

また、
孤独死した者にとって、自分の生きた証が死後消え去ることも覚悟していたであろうし
残すことも希望していない。
もし、誰かに自分の存在を残すとしたら、最低限、遺言書は書いておくことが必要であろう。
それは本人の意志がどこにあるかによって、残されるか、残されないかが決まってくる。

つまり、
命形態が決まるのは、個人の意志がすべてであることが解る。
個人の意志によって、最少社会単位も形成されてくる。
個人の意志には自由意志と誘導他人意志がある。
真の最少社会単位になれるのは個人の自由意志のみである。

自由意志にも、本心からの意志と、欲望のスパイラルからの偽意志があり、
それを判断するのは、それが本人にとっての健康 平和 幸福かどうかである。
病気や戦争や不幸を求める自由意志は偽物であるということでもある。


10.ともに生きられる社会 
  二人がロープに繋がり、転落したとき、そのロープの先が切れそうになる。
そのとき、二人はどうするか?
これが常に倫理問題としてのテーマとなっている。
そのほとんどが英雄的行為を絶賛しているが・・
下の者が自分でロープを切って、上の者を助けるというのが、一番の英雄的犠牲心として讃えられてきている。
二番目は、下の者が自分でロープを切れない場合、上の者が下の者をつないでいるロープを切る。
これは
救助の基本になっており、
二次災害三次災害を防止するには、そうした判断が推奨されている。

だが、実際には、はたしてロープが二人を支えることができない程切れているのか確かめようがない。
また、
下の者が子で、上の者が親であったら、子が自分のロープを切ることは難しく、親も、自分の命を救うために子の命を犠牲にすることは難しい。

そこで、可能な判断は
ともに生きられる方法をどこまでも挑戦し実行してみることである。
例えば、
二人を支えるロープの強さが弱いと予想した場合、
二人が持っている荷をすべて投げ落とし、軽くしてロープが切れるのを防ぐ努力をする
また、二人が別なロープを持っていたなら、それをピッケルを重みにして、崖の上のある木などに引っ掛けて、ロープの強さを補強する
他に誰かいたら、その者にロープを落としてもらいという判断だって可能である。
最初から、ドラマのような設定を思い込んでしまうと、ともに生きられる方法を探るチャンスを失ってしまう。

こうして、ともに生きられる社会を目指すためには、
まず、何事も決めつけて行動しないことである。
何事も決めつけるとは、真実を解ったと思い込むことである。
どんな真実も不悟であるという前提として行動すると、

ロープが切れそうという判断
自他との区別
二人ともでなく1人しか生きられないという思い込み
こうあるべきだという英雄的行為や 二次災害防止の倫理観という社会的価値観
これらが真実また正しいことかは不明であるとして、
これから起こる一つ一つの具体的問題にたいして、
共に馬鹿である ともに何が正しいか解らない ともに真実が悟れないということを前提に行動すると、
人々は平等に、ともに何が正しいかコミュニケーションし、ともに真実を探っていく道が歩める。

他人依存、お金依存、社会依存 権力依存 科学技術依存 などは、不平等から起こる病的個人の姿である。

弱肉強食という自然と人間の姿を真実と思い込むと、その残忍な世界を容認してしまう。
真実不悟だから、ともに真実をもとめ、コミュニケーションし、自分ができることを具体的に一つ一つ挑戦していくことで、
一歩一歩真実に近づいていけそうな気がする。
それが人間にとって、一番の生きがいと楽しみになるような気がする。

11.まとめ 
   真実不悟