自然な命の姿

1.雑事万歳 
   部屋は何もしていないと埃とゴミに覆われ、生活必需品も散乱する。
こうした掃除整頓は雑事である
畑は何もしていないと雑草に覆いつくされ、野菜や穀物がその雑草に殺される。
その雑草の刈り取りも雑事である。
心身をそのまま放置しておくと、食っちゃ寝で、何もする気力も失い、寝たきり状態の病人のようになる。
心身の病気や運動と食事の管理もまた雑事である。
仕事において、顧客からクレームがくるのを放置しておくと、仕事そのものの運営維持も難しくなる
クレームや事故や損害もまた雑事である。

こうした雑事は、自分の心身や仕事をより健全にするための最高のチャンスであり、その対処から新しく生き直す、新しく仕事を改善していく原動力になる

雑事はおおいに受け入れ一つ一つ対処していくところに、真の生きがいも、真の改革も生まれてくる
2.本心で生きる 
   ダイエットを研究して7年になるが、
体重が4キロの増減を一週間ごとに繰り返している。
それを観察すると、
食の習慣と食欲との間に大きな違いを発見する。

食の習慣は、いわば一般的な3食とその時間の慣習からくるものであり、食の内容も、一般的な量と質である。
慣習は一般的であるが、自分の食習慣はそれまでの自分が好んでやってきた肥満型であった。
だが、
慣習や習慣とは別に、自分の心身が欲する飲食は3食でもないし、食べたいときに、食べたいものを、あとで苦しくならないくらい食べる

それは日によっても、自分の健康状態でも変わってくる。

偽の心身の欲求と真の心身の欲求のメカニズムも知覚すると、
食べ過ぎて 肥満や胃酸過多や病気になる欲求が偽の欲求であり、
それは負のスパイラルとして起こる消化酵素と脳の無意識で反応することと解る。

それはまた習慣化 慣習化されて 飽食に時代になってきた社会病にもなってきている。

ところが、
飽食の時代の慣習や習慣に左右されずに、
自分の心身が本当に望む飲食を毎日挑戦していくと、自然に自分の健康な食習慣が形成されていく。
こうした新しい食習慣は健康を求め続けるということで、常に毎日変化して、新しい食習慣というものを模索し楽しめるようになっていく
なんども失敗しても、その失敗の原因を一つ一つ追及していき、その本当の原因をさぐっていくと、その失敗も雑事と同じで、成功へのチャンス・原動力になると意識できてくる。

本心で生きることは自他にとっても挑戦であり、かつ、その完成形はなく、常に新しい生き方をさぐっていく新陳代謝のような日々生まれ変わって健康で快適な命の挑戦となっていく。
3.仕事は楽しく、計算しないで 
   お金がないと生きられない社会になると、どうしても、お金を得ることが中心になり、
本来のともに生きるという意識が失われてしまう。
そのため、
お金がベイシックインカムのようなシステムで、お金を得て生きる�心配がないようにすれば、
本来の、ともに楽しく生きられる意識が高まっていけば、余計なストレスや勝敗や弱肉強食のように生きなくてもいいようになる。
4.悪いことなしに良いことに気付かない 
   どうして悪がはびこってしまうのか?
ニュースもほとんどが災害や悪事が多いのはどうしてか?
自分が病気になって健康法を思いつくことができたことから、
病気なしに健康は気付けなかった。
これまでの人生でも、失敗が9割以上しめており、その失敗なしには成功への道に気付かなかった。
世界戦争の残酷さなしに、世界の平和の大切さには気が付かなかったともいえる。
小学一年のときから三歳年上の兄のいじめが十数年もなかったら、そのいじめを克服する力も知恵も、道も得なかっただろうと思う。
のち、幼い時の兄のいじめとの格闘から、これまでの喧嘩や争いごとをどううまく処理するか、それを納める自信がつくことができたといえる。
失敗は成功の元というように
反省は学習であり、生き抜く知恵の泉でもある。
悪魔なしに神は存在できないし、迷信なしに真実はつかめないともいえる。
どんな災害であれ、それをどう処理して、同じような災害に備えるか?
これが生き抜くための新しい生き方でもある。
5.真の目的のための競争が必要 
   食習慣による食べ過ぎのため、胃袋に過剰の負担をかけてしまい、胃酸過多、逆流食道炎のみならず、胃腸 内臓の消化器官への異常なホルモンや消化酵素が起きて、さまざまが病気を引き起こす。
飽食の時代というより食べ過ぎの病的時代といえよう。

競争は真の目的である健康・平和・自由のために行うのが健常な社会であるが、
真の目的のための競争ではなく、単に人の過剰な欲望のための競争は夢中またやみつきやそれが目的になった競争はさまざまが問題を引き起こす。それらは勝敗にこだわってしまいやすく、本来の目的を見失いやすい。

クーベルタンが唱えたオリンピズム=オリンピックの精神とは

「スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること」

このオリンピック精神を目的にした競争をするには、
現在の「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーにした「金銀銅」のメダルだけでは不十分である。
2021年にオリンピックモットーに 一緒に(Together)が付け加えらえた。
それは
オリンピックの価値として、「卓越」、「友情」、「敬意・尊重」の3つを制定しており、それが共に、togetherがモットーに付け加えられたことである。

これが真の目的であるから、それに対する、競争として、その競争の金銀銅メダルにあたる、ダイヤモンド・ルビー・サファイアのメダルを 
オリンピック各競技者・団体に、勝敗ぬきに、「卓越」、「友情」、「敬意・尊重」の試合を行ったときに与える。

それは応援者、裏方、にも与えるというようにすれば、本来の目的に向かって、技の優劣に関係なく、もっと意味ある感動深いオリンピック・パラリンピックになるだろう。

 
6 平等とは
   人は長所と短所をみな持っているということである。
もし、完璧な人がいたら、人ではなく、空想の産物である神様や悪魔である。

そして、
完璧な人がいたら、国や社会は必要がないということ、
みな平等に長所短所を持つがゆえに、国と社会が成り立つということである。

なぜ、人の個性が生きる上でもっとも価値があるかということは、
人は長所短所を合わせ持つからであり、それを互いに補い、会話し、さらにともに強く生き続けることができるからである。

7.力を抜く習慣が必要 
   筋肉をつけるよりも、筋肉の力を抜く技術が必要に思える。
日頃がら、肩がこるとか、腰が痛いというのは、その部位に過酷な筋肉の力を入れさせているからである。
また、足などがつるのも、そこ部位に、長い時間力を入れ過ぎているために起こる。
マッサージが気持ちいいのは、ひきつった筋肉をもみほぐすからである。
だが、他人や機械にまかせてもみほぐしてもらうことが習慣になると、ついそれに頼ってしまいやすくなる。
自分で日頃から使う筋肉や緊張をぬいて、楽にするには、自分で力を抜く技術と習慣を身に着けるといい、
精神知的な思い込みというのは、いわば筋肉の緊張にあたり、筋肉の力を抜くということは、思う込みを白紙にもどすということである、
頭を空にする、全身の筋肉の力を抜く 内臓を休ませるということは、自然な命の姿を維持するには欠かせない基本姿勢である
8.自然とは 
   自然という文字は自ずと然り(おのずとしかり)と書く
この意味は、人間であれば、自分本来の生き方で生きていく姿をいう。
英語の自然 nature の語源はラテン語で、「もって生まれた意)を示す。
人間であれば生まれたときの才能をそのまま生かして生きるという意味もあるように見える。
自分のありのままの姿で生きるという意味が日本語と英語の語源から紐解けてくる。
この意味を発展させると、
「自信をもって生きる」という来9月のテーマが決まってくる。

自然に反する言葉は、人工的であろう。
この人工的というのは、本来あるべき姿を他人の意志をもって強制的に造り変えることである。

9.自然な努力とは 
   自然さとは、何の努力もしないことのようにもとらえることができる。
本来の自分の姿のままに楽に生きていくことでもある。
だが
他人や社会に、本来の自分を強制教育また意識洗脳されて変更させられてしまった場合、
自分本来の姿に取り戻すためには、努力が必要になる。
この本来の自分の姿にもどるような努力が、自然な努力といえよう。

例えば、
 周りの環境や興味本位で、喫煙してしまい、煙草依存症(ニコチン中毒)に陥った場合、
禁煙して、喫煙前の自分の健康な体に戻るという努力が本来の自分を取り戻すという意味で、自然な努力といえよう。

この自然な努力は大きくは、人間の旺盛な欲望により環境破壊から、快適で安全な地球環境に戻そうとする行為も自然な努力ということでもある。

精神的には、飽くなき欲望から生じた競争と不平等な社会を必要最小限の欲望により、弱肉強食な社会から共に生きられる社会にもっていくのも、自然な努力である。

10.自然に善悪も正邪もない 
   人間が定めた法や信じた内容や慣習により、善悪、敵味方 正しい間違いなどが決められる。
だが、そうした人間が定めたり、信じたりする内容は時代とともに変化すると善悪正邪敵味方も変化する
今は最も科学的観点が信じられているが、現実的に、そうした科学的知識は検証されずに、権威ある雑誌の論文として提出された内容であり、それを権威団体が信じるかどうかで判断されている。
また、
科学的知識は狭い分野の中での確率的に高いということだけで、絶対的な知識にはなりえない。
科学もまた、確実に100%正しい知識を見出すものではないことを認めてかかる必要があろう。

それ故に、
自然な命の姿は、その時代と土地の人間の善悪。正邪 敵味方という観念にとらわれない生き方になる。