「Z」いかに貨幣改革をするか


1.二種の貨幣制の創設

●新しい道具の革命から

 いかに貨幣改革をするかは、政治改革のように野党が与党にとってかわるようだと、かなり荒れる傾向があり、また、たとえとって代わったとしても、本質的なモノが変わらないことが多く、同じ繰り返しをすることが多い。
 もっと、ゆっくりと自然に移行するようなものが平和的であり、理解と体験とを合わせて、失敗も少なく、また修正をしながら進めていけるように思える。
 それはお金を道具としてみるならば、いままで使っていた道具が主流だったときに、もっと便利で安価な道具の発明ができたときの状態に似ている。多くの人々が新しい道具を使ってみることで、徐々に変化していくようなものである。
 
●鎌と鍬

 お金は商品の価値を計る道具である。新しい貨幣も古い貨幣も道具として想定することもできる。その場合、農作業をするいろいろな道具として、鎌と鍬の違いのように、新通貨と現通貨をみることもできる。

 現通貨は各国で発行され、その各国通貨は諸外国の通貨と交換売買される。このような貨幣の交換両替できるような道具は本質的に同じ道具であるから可能になる。農機具の鎌ならば、鎌のサイズの大小や形が各国で違っているようなもので、その鎌で使える農作業は同じ草刈りになる。

 しかし、土を掘り起こす鍬と草刈りする鎌とは交換したとすると、鎌で土を掘り起こし、鍬で草刈りをするようなもので不便きわまりないものである。

 現貨幣は貸借できる貨幣でいわば増えるお金であるが、新貨幣は貸借できない贈与貨幣であり、減るお金であるから、それは本質的に交換ができない鎌と鍬のような道具の違いになる。

 草刈りの農作業と、土を掘り起こす農作業の違いのように、商品の価値を計る作業の違いがあるだろう。それは新貨幣という道具の目的、現貨幣という道具の目的に違いがあるといえる。


 

2,地域通貨と日銀券


 ほとんどの地域通貨は原則的に日銀券とは交換できない。しかし、地域通貨がなかなか流通しにくいため、交換できるような地域通貨もでてきている。

 その場合に、いくつかの例がある。

 ・日銀券で地域通貨を買えるが、地域通貨を日銀券に両替することができない (一方通行型)
 ・地域通貨を商品券やクーポン券のように発行する場合、両替はできるが、その両替に差額をつける。
   これも二種あって、通常の商品券は日銀券で手数料が差し引かれ数%引かれるが、商品券はそのまま日銀券と交換できる。  各自治体で発行された地域クーポン券は日銀券で地域の商品を数割多く買える。その商品券は各自治体でその額で日銀券と引き替えできる。
 
  またまったく日銀券と交換できないものは商品のようなモノではなく、サービス(労働力)に限っていることが多く、その場合モノが必要な場合は日銀券の実費がかかることになる。

 こうした地域通貨は地域に限って流通するよりも、会員相互で流通するといっていい。自治体が発行する地域クーポンでも、その地域すべての商店ではなく、それの加盟店だけ買い物ができるというものであるので、会員の間で通用するといえるものである。

 つまり、どんな地域通貨でも日銀券と完全に分離流通することは難しいといえる。また、どうしても法的に国民すべての流通できないため、せまい会員相互になり、全国に広がることは難しいものとなっている。

  

3,1 for all, all for 1

 ラクビーのチームが一丸となって強いパートナーシップを発揮する精神が、「1 for all, all for 1(1人はみんなのために、みんなは1人のために)がある。

 これは、お金のシステムにもいえる。

現貨幣の増えるお金は、「みんなは1人のために(all for 1)」のシステムだといえる。いろいろな仕事で成功した人を神のようにもり立て、みんなはそれに従おうとする。そして、みんなは一つの心を持つことで一致団結して、助け合うのである。

 こうしたシステムはピラミッド式で、宗教型であり、上からの命令が絶対の力を発揮できるようにする。それに逆らうのは難しいことになるような社会システムである。

 これは金持ちはさらに金持ちに、貧乏人はさらに貧乏人になるシステムではあるが、貧乏人が一転奮起すると、大金持ちにもなれるようなシステムが今の増える貨幣システムである。

 このは数千年の間、支持されていたシスムムである。そして、数々の英雄が生まれ、偉大な人物がうまれ、民衆は彼らを信じ、従って、まとまってきた。一方、そうして偉大な人物が逆になる場合がある。奢れる者は久しからずである。逆に独裁的になって、みんなのことを考えずに、自分だけのことを考え行動した場合はみんなの支持を失い、その上座から引きずり下ろされる。

 このシステムの判断は多数決が主になる。1人の英雄を決めるのは多数決によるのである。また、1人の人気を決めるのも多数決による。そのため、多数決で決められた者に多くの報奨金のようなお金が集まることになる。それはスポーツにおけるものと同様に勝てば勝つほど、お金は無限に儲かるシステムである。

 しかし、こうした増えるお金の対にあたる「1人はみんなのために(1 for all)」が、うまく機能していない。これは減るお金である。増えるお金は多数の人々の頂点にお金が集まるが、減るお金は多数の人々のお金が一番下の悲惨な者に集まるシステムである。

 世界の飢餓する一部の人に世界中のお金が集中するようなもんである。ラクビーで失敗ばかりするメンバーをチーム全体で、それをカバーするように働き、それはチームの勝敗を度外視して、ひたすら失敗する1人のメンバーを助けるゆに他のメンバーが助け蹴るようにプレーする。このシステムが減るお金である。

 現増えるお金の財源がお金の所有者(金持ち)の欲望にあるが、減るお金の財源はお金がまったくない(貧困者)の欲望にある。

 これは「神とは何か?」 という問いが 「お金とは何か?」という問いの結論と一緒になるようなものである。

 神とは通常天地創造主であり、仏とは最上の智恵である悟りであり、それを具現化したのが仏陀である。いわば、人間すべてを統治する人間のような存在である。そのため、人類の最高峰にいる人のことである。その上に近いものが偉人とか神人とか教祖とかいわれるものである。

 人類すべてが一番求めてやまない根幹な存在が神仏である。これはお金にもいえて、すべてのお金の持ち主であるのが超大金持ちであり、ビジネス界の頂点であり、芸能界のトップになった超人気スターである。

 現貨幣はお金の発行者がお金を支配する者ではなく、お金を一番多く所有している者が世界を支配する者であることと同じである。そのため、超大金持ちは地球一つくらい買えるだけのお金をもっている。

 みな神仏のようになろうと努力し、世界一の金持ちになろうと努力する。そこに競争があり、右往左往しながら、天辺をめざす。人よりもより強くより大きく、より上をめざして、そこにドラマがあり人生がある。

 こうした宗教が進化すると、神仏はいったいどこにいるのか? それをとらえようとしても、どうしてもその実体に行き着かない。そして最終的に行き着いたのが、「神は自分の心の奥に住む」ということである。それは、神を求める心にその正体が隠されていたからだ。究極の欲望対象は神だが、その欲望の原因を創りだしているのは自分の心であることに気が付いたからだ。

 もし自分が神を欲望しなければ神は存在しないのである。どんな宗教も「その神仏を信ずれば救われる」ところから出発しているため、もし、その神仏を信じなければその神仏は存在しないため、その神仏に救われようと救われまいと関係なくなるのだ。

 そのため、神はどの人の心の中に存在することに、なり、仏にいたっては、生きるモノすべてに仏心があることになるのである。

 すなわち、神仏はすべての人の数だけ、その心に存在する。いわば、1つなる神からすべてなる神に代わるのである。

 こうした宗教界の革命はお金にもいえるのである。お金持ちに対する欲望の原因がすべての人の心に存在する。そのため、お金はすべての心(欲望)の中に存在するという革命変化が今起きようとしている。

 お金を欲しなければお金は存在しない。お金を欲した人にしかお金は存在しないのである。それは日銀券を使いたい人だけが日銀券を欲するけれど、日銀券ではなく、減価する貨幣を欲する人には日銀券は存在しないことになる。

 今まで投資会社にいた人が金で金を生み出す仕事が嫌になり、自給自足できるような農業に転向するようなことが起きているのである。これは欲望対象が金から、食べ物に代わった変革である。

 お金に対する欲望が、「すべてのお金を所有したい」から、「すべてのお金をすべての人に分け与えたい」に代わるとき、神は天上から、自分の心の奥に舞い降りてくる。そして、マザーテレサのように、「キリストはこの世で最も小さき人の中に住まわれる」という啓示になり、ボランティアに一番のキリスト信仰心をみいだすのである。

 このマザーテレサの革命は、お金にもいえて、お金の発行者(真の所有者)がこの世で最も大きな者から、この世で最も小さき者になったことをいう。

 つまり、この世のお金を生み出す創造力はこの世で最も小さき者、すなわち最も貧困者の心の中に一番多く見いだすことができるのである。だから、増えるお金の財源は金持ちだったが、減るお金の財源はもっとも大きな欲望の持ち主である貧困者なのである。

 そのため、震災復興財源は金持ちや税金ではなく、被災者の心の欲求の大きさになる。

 これは商品の価格を決めるときのオークションにみてとれる。このとき、そこに参加する人がみな同じ金額だけの所有者だったときに、落札する人はその商品をもっとも高価で買い取る人になるからである。

 例えば、一杯のご飯のオークションがあったとき、そのご飯の金額をもっとも高く買うのがそご飯を食べなければ死んでしまうような飢餓の人が一番の高額で落札するからである。

 価値はその人がもっとも多く望む欲望から生まれるからであり、お金は本当はお金持ちから生まれるのではなく、欲望からお金が生まれるからである。

 神は人の欲望の中から生まれるように、お金も人の欲望の中から生まれる。

 もし、人がお金を欲求しなければお金は生まれないだろう。お金は商品に対する価値(欲望)である。それはどんな欲望(お金)にはその対象(目的)である商品が規定される。

 すべての人に分け与えたい欲望対象と、すべての中から1人だけ与えたい欲望対象は当然ちがってくることになる。この欲望対象商品を規定することがお金の目的化なのである。


4,お金の目的化

 今の市場経済は二種ある。実質経済と金融経済である。実質経済は商品やサービスが主体となる経済だが、金融経済はお金でお金を増やす経済が主体となる。

 それらがどういう割合で動いているかというと、今アメリカの「ウオール街を占拠せよ」というデモは世界に広く波及して、そのデモの中心が1%の金持ちが99%の貧困者を支配しているということへの不満である。

 これはとくに中央銀行システムによる利子付き貸借経済社会に起きているデモである。それはとりもなおさず、金融経済が99%を占め、1%が実質経済の割合になっているということである。金融経済は国民の1%の金持ちがほとんど支配しており、世界のほとんどの金を所有していて、他の99%の国民にその金を利子付きで貸し出して、働かせているのが現状である。働く国民は商品を生産流通消費するが、投資家は金を投資し、金を動かし、金を増やす、マネーゲーム集団である。それはウオール街に集中しているから、そこからデモが始まっている。

 もし、お金を今の増えるお金と減るお金に二種にした場合、金融市場は増えるお金が使える市場であり、実質経済は減るお金の市場が適している。

 今とくに問題になっているのは、金融市場の混乱が、実質経済を混乱させているからだ。実質経済自体は国民の需要と供給で動くが、金融経済は金儲けで商品やサービスを、金儲けの手段として扱うため、投資によって物価を上げ下げして、その差額で儲けるマネーゲームである。

 もし、金融経済市場における債券・株・為替が実質経済の現金とは交換できないとしたら、金融経済の混乱が実質経済を混乱せしめることもない。

 今ギリシャが国の借金で破産寸前だが、もし、そうした借金返済に関係なく、国民の衣食住が確保されるならば、実質経済は健全になり国は混乱することはなくなるだろう。

 それは借金で国民が生きるための衣食住は奪われないならば、すべて解決することになり、それは借金返済不履行を宣言し、将来その借金返済のために働く必要はなく、借金免除してもらうだけでよく、あとは今までどおり生活をすればよい。

 しかし、さらに国が借金をしなくては国民が生活できないならば、ギリシャはEUから脱退し、自国の通貨を発行して、国民生活に必要なところにまわせばいいことである。

 ここにおいて、自国通貨を減るお金にし、ユーロやドルの増える金とは交換できなくすれば、今後金融経済が実質経済を混乱させることはできなくなる。

 しかし、ギリシャは観光立国なので、外貨で国の経済が成り立つため、自国の通貨だけでは、今の生活を維持できないだろう。その場合、外貨が増えるお金ではなく、その国の減るお金とは交換できるような条約を各国で結ぶならば、観光立国で生活は成り立つことができる。

 その場合、双方の減るお金の減価率は同じ%にしないと、その差額で儲けようとする外為が発生してしまうので、また、貿易不均衡で問題が生じることになる。

 ギリシャのように借金返済ができない諸国が今後増えている。そのため、各国が連携して、減るお金による国内通貨を発行し、そうした減るお金同士の両替ができる加盟国を増やすことが、必要になってくると思われる。

 もし、増えるお金と減るお金の対象を2つに分けるならば、自然に分類ができそうである。

 増えるお金は金で金を増やすことができる市場が対象であり、減るお金は実質経済全体が対象になる。

 そうなると、国民のほとんど99%の生活市場が減るお金の対象になり、国民の1%の投資家が集まるウオール街のような証券市場が対象になる。

 増えるお金と減るお金は交換できないと規制するよりも誰もそんなばかげた交換はしないからである。片方が増える金で片方が減るお金だったら、どっちを欲しがるだろう。増える金である。増える金をもった人が減るお金に交換しようなどとは誰もしないからである。

 しかし、増える金が単にマネーゲームでしか使えないようなパチンコ玉やゲームコインであったならば、どう交換されようとするかは今パチンコ玉の料金と、景品交換所の交換率の差額をみればいいだろう。

 それは遊び金として、交換されるだけであり、実質経済全体には大きく影響を与えることは少ないと判断できる。

 
 

5.「心と体」を支配する2つの神経

 国全体の姿は個人の体の姿に合わせて考え、調整すると、あんがいうまい案がでてくる。それは人間活動のすべては個人の働きから成り立っている。どんなに個人が多数集まった社会や国や世界でも、それを構成するのは個人ばかりである、集団体という生物がいるのではない。

 それは人はみな体と心を持っているように、国も体と心を持っていると想定して、ものごとの解決を導くこともできるということだ。

 体と心をコントロールするのは神経である。神経には意志の通りに動かす随意神経と、意志通りに動かない不随意神経とがある。この不随意神経は自立神経ともいわえており、特に臓器の動きを相反する作用である交換神経と副交感神経で管理している。

 こうした神経の働きをお金の働きに照らすと、増えるお金は交換神経であり、相反する減るお金は副交感神経であれば、社会の内臓にあたる諸企業や団体や国は正常に働くと思えるのだが、お金の性質からみるとこのようにあてはめることはできない。

 当てはめることができるとしたら、意志通りに動く随意神経である「増えるお金」と、それに相反する、意志通りに動かない不随意神経である「減るお金」が当たるだろう。

 というのは、今の増えるお金は貸す意志と、返す意志がなければ動かない経済なので、随意努力経済であり、新しい減るお金はなんの意志も必要がなく、自動的に動く、不随意自然経済であると判断した方が当てはまるからである。

 今の国の経済事情からみると、まさに国の諸機関や国民が意志努力しないと、国全体が病気から回復しないような状態である。

 我々の内臓は意志に寄らないでも、自立的に働くことで、人は何の苦労も、心配もなく体と心を維持できる。他の生物は借金を返さないと生活ができないだろうか? また、借金しなければ仕事ができないのだろうか? 人間だけが自分が創った金のシステムの奴隷となって生きているのではなかろうか?

 税金を徴収しなければ国がもたないシステムは、強制労働させる強制収容所と同じではないのか。もし、なんらかの犯罪をすればその人は刑務所で三食付き労働を与えてくれて生きられるが、仕事も金もなくなって、犯罪行為をしなければ、その人は死ぬしか道がない社会構造だったら、その社会はいずれ犯罪天国になるだろう。

 国民がどんな心配もどんな努力もなしに、他の生物のように生きていけるような社会は我々の体のおける不随意神経である自律神経で動く五臓六腑である地方自治体や不随神経をつかさどるコンピュータ脳が必要である。

 このコンピュータ脳が減るお金のシステムである。

 しかし、こうした自律神経も壊れることもあるので、それを意志(医師)の力で治療する随意神経も必要になる。これが「増えるお金」がはたす役割にすればいいだろう。

 というのは「減るお金」はお金を国民にくまなく与えることはうまいが、国民をさらに豊かにする力は得意ではない。それにはやはり意志と努力が必要だからである。


 

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